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読んだ本の記録とメモ

フィリップス・アリエス『死と歴史』

 

 フィリップ・アリエス『死と歴史』メモ

気になった箇所の引用

瀕死者は自分の死を奪われてはならなかった。彼はまた自分の死を司らねばならなかった。かつて人は、公に生れるのと同様に、公に死んだ。

 

主役は瀕死者自身のものだった。彼が司り、失敗は殆どなかった。

 

今日ではもはや、銘々が持つか、または持たねばならぬ、自分の最後は間近いといった意識は何ら残っていないし、死の瞬間が持っていた公的荘厳さの特徴も何一つ残っていない。かつて知られねばならなかったことが、これからは隠されてしまう。かつて荘厳でなければならなかったものが、はぐらかされる。

 

幸福と安楽の社会にあっては、苦悩、悲哀、死の居場所はもうなくなったなどと言ったら、軽率に過ぎた答えである。 

 

彼は自分の死の主人である限りにおいてのみ、自分の生の主人であった。彼の死は彼に属し、彼だけにしか属さなかった。

 

重大な危険が家族の一員をおびやかすと、すぐに家族は彼をつんぼ桟敷におき、彼から自由を奪うよ企てる。そうなると病人は、子供のような未成年者か、あるいは精神薄弱者のようになり、配偶者や親戚が彼の面倒を見、世間から隔離するのである。ほかの人の方が彼よりもよく、彼のすべきこと、知るべきことを知っている。彼は自分の諸権利、とりわけ自分の死を知り、それを準備し、それを計画するという、かつて基本的であった権利を失ってしまう。そして彼は、それが自分を思ってのことだと確信しているので、されるがままになる。彼は家族の愛情に頼る。それでもやはり彼が見抜いた場合、彼は知らん顔をするであろう。往時の死は、人が死にゆく人物を気取る──しばしば喜劇的な──悲劇であった。今日の死は、人が自分の死ぬのを知らぬ人物を気取る──常に悲劇的な──喜劇である。

 

あえて死を口にすること、そのようにして社会関係の中に死の存在を認めること、それは昔は日常茶飯事の枠内のことであったが、今はもうそうでなく、例外的で途方もない、しかも常に悲劇的な状況を惹き起すことなのである。かつて死は見なれた顔であり、だからこそモラリストは、恐れさせるために死を醜くせねばならなかった。今日ではただその直言うだけで、日常生活の規則正しさと相容れない感情的な緊張を誘発させてしまう。 

 

感想

6年ぶりくらいに読み返した。
最近、死について考えることが増えた。
センシティブで受け入れがたいことから、見つめるものへ。
死を少しずつ、昇華させていく。

今一度自分の死の主人になれる日は我々に訪れるだろうか。