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読んだ本の記録とメモ

今村仁司『近代性の構造』

今村仁司『近代性の構造』メモ 

ナショナリズムインターナショナリズムの循環

比較的社会に危機が少ないときにはコスモポリタニズム的な気運が高まり、危機的な状況になるとナショナリズムが強くなる。近代というのは、政治イデオロギーに即して考えれば、ナショナリズムとコスモポリタニズムという二つの極の間を動いてきたのである。 

 

いかなる意味で国家は幻想的なのか

つまり、近代において国民国家が出てくる場合に、かならずそうした文化闘争が起こり、少数民族の言語あるいは地方言語、方言というものが排除されて、標準語という人工言語のなかに溶かし込まれていくということがある。 

国民国家のポジティヴな側面

一つの政治的共同体に参加するかぎりは、出自のいかんに拘らず、平等な人格として扱われ、諸々の権利を同様に賦与されるという理念は、近代国民国家の成立なしには生まれなかったであろう。

分類装置

近代国民国家は、一方では対等な人間同士の関係をうたいながら、実質的には、その対等な人間関係ではなく、非対等な人間群を分類する装置にもなっていく。すなわち、同一化可能な人間は受け入れるが、同一化しにくい人間は排除するということである。どの人間がアクセプタブル(accptable)であるか、どの人間がそうではないかという、さまざまな人間集団の分類を始めていく。

 

ナショナリズムはつねに人種差別的

結局のところ、人間は、差別を抱え込むことで生きてきた。

 

異者共同体論のテーゼ

「異者の共同体は、中心のない共同体である。同一化も排除もない共同体である。率先して自己排除する道を選択した人々が作る消極共同体は、たとえ無力であっても、すくなくともそこで排除と差別のない生活の実質が実現していることだろう。そこでは人間か非人間かの問いが一切の意味を失うだろう。」

 

社会的動物としての人間

われわれは、ふつう、「社会的人間」とか、「政治的共同体の公民=市民」として存在し生きることが、「幸福」で「立派」で「文明的」であると信じている。そうした信念を一度は根本的に疑ってみる必要がある。本当に「社会的、共同的に生きる」ことが生の充実と幸福に通じているのであるのか、と。むしろ反対に、社会や共同体のなかで生きることは、人間にとって不幸なことかもしれないのではないか。

 

道徳の問題ではない

あらゆる人間が善人であるゆえに、際限のない悪行をつづけてきたのだ、とでもいわなければ、「社会的人間」の行動の歴史は理解できない。ある種の道徳的に悪い人間がいたから、あるいは人類が啓蒙と理性の訓練を受けていないから、あるいは人類が十分に文明化していないから、人類は、そして個々人は、不道徳な行為、非理性的な行為、野蛮な行為をしてきたのだ、ということはできない。人類はいつの時代でも、それなりに有徳的であったし、文明的であったし、理性的であった。

それにもかかわらず、人類は、際限なく、数かぎりなく、耐えがたい「不道徳」と「非理性」の行為を蓄積してきたし、いわゆる「近代文明」と「近代理性」の時代たる現代においても、以前と同様に、いやそれどころか、かつて以上に、合理的道具と装置によって、しばしば血を流す形で、排除と差別の行為をやりつづけている。

 

原初の暴力ーー「場所をあけろ」と叫ぶ力

自己の存在の維持と保存は、たえまない切断線を際限なく引きつづけることである。

 

「私」の現存在は、「他者」の現存在を排除する。「他者」が「私」の自己保存にとって妨害物になるかぎりでは、「他者」に対する闘争が不可避になる。

 

秩序や制度は、たんにあるのではなくて、原初の暴力に直面し、原初の暴力を抑制する過程で生じてくるのである。いいかえれば、制度や秩序の形成を促すものこそ、人間的現存在の原初的暴力なのである。

 

第三項排除をもって解消する

人間は、相互排除の暴力を、任意の他人に集中することで、自分たちにむかっていた暴力を回避する。

 

任意のだれか(だれかは決まっていないが)ともかくだれか一人にむかって、集団的暴力が集中するとき、秩序形成のための排除のメカニズムが働き出す。

 

第三項を媒介に形成される市民社会

社会または共同体のメンバーが相互に自己確認するためには、犠牲者作りに参加したしるしを必要とするという事実は、社会のなかで生きる人間の基礎的なありかたである。

 

差別が排除の構造をより堅固にする

社会関係は、不断に排除のメカニズムを発動しつづけないと、自己保存ができない。

 

かりに、排除すべき対象が存在しないとすれば、秩序のなかにある人間は幻想的にさえ排除の対象を作りだすことであろう。人間の内に巣喰う暴力は、見事に首尾一貫する。人間は幻想のなかでさえ、秩序の敵を、排除すべき異物を産出しつづけるという奇妙な性格をもっているとさえいえる。人類は、古来、際限なく、異者を排除し差別しつづけてきた。

 

同一化がはらむ差別の分類図式

対象化という原理は、主観性の図式の内部への客体の同一化である。同一化できないものが排除される。同一化不可能なものは、あたかも存在しないかのごとく処理される。

 

自己にも他人にも、規律と訓練の視点(これこそ生産主義の理論であり、経済合理性を生んだ精神であるが)から対応する近代の思考様式と実践様式は、異物に対して激烈な排除効果をおよぼすのである。

 

人間/非人間の切断線はイデオロギーである

人間/非人間の切断と分類は、文化的なものである。文化的なものとはイデオロギー的なものであるということである。

 

人間/非人間の区分は、最初は、そしてたいていは、人間/動物の区分として立てられる。アルカイックな人々(いわゆる「未開人」)は、人間と動物を区別したり、人間と動物の間に厳格な切断線を引いたりしない。それどころか、彼らは人間と動物との連続性を考えて、動物排除や動物差別のドライヴを解消している。

 

人間中心主義は、人間であらざるものの全面的・決定的排除であり、非人間的なるものの絶対的差別なのである。

 

ヒューマニズムカニバリズム

動物は、非理性的であり非人間的であるから、排除や差別の対象であるばかりでなく、「食ってもよい」対象である。

 

「肉を食う」というタームは、現実的でもあれば隠喩的でもある。隠喩的とは、ある種の人間は「食ってもよい」のだから。差別とは「食ってよい」ことを含意している。「食ってよい」は、隠喩的に拡大し、社会生活のなかでの権利の剥奪と抑圧に通ずる。

 

人間をも含む「非人間」

非理性と狂気をもつもの、障害をもつものばかりでなく、男から差別される女性(と女性的なもの)、性的関係では同性愛、民族関係では無数の少数民族、文明/野蛮の区別のレベルでは、文明的でないとレッテルをはられる諸民族や国民、宗教的関係では、異教とされる諸宗教、等々、いくらでも「非人間」は増殖しつづける。

 

自己の内部の異者に気づくこと

一般に、個々人は、互いに、異者である。異者を同一性の文法にのせて、「秩序のなかでの他者」に作りかえることが、人間社会の余儀ない作法である。

 

異者の共同体は、中心のない共同体である。同一化も排除もない共同体である。率先して自己排除する道を選択した人々が作るこうした消極共同体は、たとえ無力ではあっても、すくなくともそこでは排除と差別のない生活の実質が実現していることだろう。

 

感想

なんだろうな、最近差別解消に向けて声をあげる人が多いけど、結局彼らは、彼ら自身が置かれたその線引きとはまた違うところで、自分が暴力を振るっていることには無自覚だ。

みんな自己保存に必死なんだよな。

常に異者を排除したがっている。

奪われるくらいなら奪おうなんだよな基本姿勢が。切断線は本当に身近に、至る所にある。でもそこに自覚的であるか、無自覚であるかは大きな違いだと思うんだよな〜

自明と思っているそれは、たぶんどこかの誰かへの切断線になっている。

 

 

 

 

 

 

 

近代性の構造 (講談社選書メチエ)

近代性の構造 (講談社選書メチエ)

  • 作者:今村 仁司
  • 発売日: 1994/01/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)