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読んだ本の記録とメモ

小林秀雄『Xへの手紙』

小林秀雄『Xへの手紙』メモ

 

和やかな眼に出会う機会は実に実に稀れである。和やかな眼だけが恐ろしい、何を見られているかわからぬからだ。和やかな眼だけが美しい、まだ俺には辿りきれない、秘密をもっているからだ。この眼こそ一番張り切った眼なのだ、一番注意深い眼なのだ。たとえこの眼を所有することが難しい事だとしても、人は何故俺の事をあれはああいう奴と素直に言い切れないのだろう。たったそれだけの勇気すら何故持てないのだろう。悧巧そうな顔をしたすべての意見が俺の気に入らない。誤解にしろ正解にしろ同じように俺を苛立てる。同じように無意味だからだ。例えば俺の母親の理解に一と足だって近よる事は出来ない、母親は俺の言動の全くの不可解にもかかわらず、俺という男はああいう奴だという眼を一瞬も失った事はない。

 

俺の様な人間にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだという事を信じたまえ。

 

俺に入用なたった一人の友、それが仮りにきみだとするなら、俺の語りたいたった一つの事とはもう何事であろうと大した意味はない様である。そうではないか。君は俺の結論をわかってくれると信ずる。語ろうとする何物も持たぬ時でも、聞いてくれる友はいなければならぬ。俺の理解した限り、人間というものはそういう具合の出来なのだ。

 

人は愛も幸福も、いや嫌悪すら不幸すら自分独りで所有する事は出来ない。みんな相手と半分ずつ分け合う食べ物だ。その限り俺達はこれらのものをどれも判然とは知っていない。俺の努めるのは、ありのままの自分を告白するという一事である。ありのままな自分、俺はもうこの奇怪な言葉を疑ってはいない。人は告白する相手が見附からない時だけ、この言葉について思い患う。困難は聞いてくれる友を見附ける事だ。だがこの実際上の困難が、悪夢とみえる程大きいのだ。誰も彼もが他人の言葉には横を向いている。迂闊だからではない、他人から加えられた意見を、そのまま土台とした意見を捨てきれないからだ、土台とした為に無意味なほど頑固になった意見を捨てきれないでいるからだ。誰も彼もがお互に警戒し合っている、騙されまいとしては騙し合っている。

 

俺が生きる為に必要なものはもう俺自身ではない、欲しいものはただ俺が俺自身を見失わない様に俺に話しかけてくれる人間と、俺の為に多少は生きてくれる人間だ。

 

誠実という言葉ばかりではない、愛だとか、正義だとか、凡そ発音する度に奇態な音をたてたがる種類の言葉を、なんの羞恥もなく使う人々を、俺は今も猶理解しない。

 

人は女の為にも金銭の為にも自殺する事は出来ない。凡そ明瞭な苦痛の為に自殺する事は出来ない。繰返さざるを得ない名附けようもない無意味な努力の累積から来る単調に堪えられないで死ぬのだ。死はいつも向うから歩いて来る。俺達は彼に会いに出掛けるかも知れないが、邂逅の場所は断じて明されてはいないのだ。

 

別れた今でも充分に惚れている、誰でも一ったん愛した女を憎む事は出来ない。尤も俺もようやく合点した、女との交渉は愛するとか憎むとかいう様な生易しいものじゃない。

 

俺は女と暮してみて、女に対する男のあらゆる悪口は感傷的だという事が解った。

 

女は俺の成熟する場所だった。

と言っても何も人よりましな恋愛をしたとは思っていない。何も彼も尋常な事をやって来た。女を殺そうと考えたり、女の方では実際に俺を殺そうと試みたり、愛しているのか憎んでいるのか判然としなくなって来る程お互の顔を点検し合ったり、惚れたのは一体どっちのせいだか訝り合ったり、相手がうまく嘘をついて呉れないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却ってがっかりしたり、——要するに俺は説明の煩に堪えない。

 

俺は恋愛の裡にほんとうの意味の愛があるかどうかという様な事は知らない、だが少くともほんとうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた同士の認識が、傍人の窺い知れない様々な可能性をもっているという事は、彼等が夢みている証拠とはならない。世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺達は寧ろ覚め切っている、傍人には酔っていると見える程覚め切っているものだ。この時くらい人は他人を間近で仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える、従って無用な思案は消える、現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代る。一切の抽象は許されない、従って明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらい人間の言葉がいよいよ曖昧となっていよいよ生き生きとして来る時はない、心から心に直ちに通じて道草を食わない時はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。

 

女はごく僅少な材料から確定した人間学を作り上げる。これを普通女の無智と呼んでいるが、無智と呼ぶのは男に限るという事をすべての男が忘れている。俺の考えによれば一般に女が自分を女だと思っている程、男は自分は男だと思っていない。この事情は様々の形で現れるがあらゆる男女関係の核心に存する。惚れるというのは言わばこの世に人間の代りに男と女とがいるという事を了解する事だ。女は俺にただ男でいうと要求する、俺はこの要求にどきんとする。

 

これ程簡明素朴な要求が、男にとって極めて難解なものだとは奇っ怪な事である。俺にはどうしても男というものは元来夢想家に出来上っている様な気がする。彼が社会人として常日頃応接しなければならない様々の要求の数がどれ程に上ろうとも、一体彼はこれ程生き生きとした要求に面接する機会が他に一度でもあるだろうかと訝ってみるのだ。彼の知的な夢がどれ程複雑であろうとも、女のたった一言の要求に堪えないとは。だが男は高慢だから(女の高慢などは知れたものだ)ちょっと面喰うがすぐにこれは単なる女の魅力だと高をくくる。そのうちに一種の不安を感じて来る。気が附いた時には戦は了っている。

 

女は男の唐突に欲望を理解しない、或は理解したくない(尤もこれは同じ事だが)。で例えば「どうしたの、一体」などと半分本気でとぼけてみせる。当然この時の女の表情が先ず第一に男の気に食わないから、男は女のとぼけ方を理解しない、或はしたくない。ムッとするとかテレるとか、いずれ何かしら不器用な行為を強いられる。女はどうせどうにでもなってやる積りでいるんだからこの男の不器用が我慢ならない。この事情が少々複雑になると、女は泣き出す。これはまことに正確な実践で、女は涙で一切を解決して了う。と女に欲望が目覚める。男は女の涙に引っかかっていよいよ不器用になるだけでなんにも解決しない。彼の欲望消える。男は女をなんという子供だと思う、自分こそ子供になっているのも知らずに。女は自分を子供の様に思う、成熟した女になっているのも知らずに。

 

こういう処に俺は何かしらのっぴきならない運動を認める。女の仮面や嘘は女の独創であり、言わば女の勇気だとしても、逆に男の智慧にとっては、女の勇気は堪えられない程の虚飾に充ちている。こういう事情にはいつものっぴきならない確定した運動があるのか。俺にはこの言わば人と人との感受性の出会う場所が最も奇妙な場所に見える。

 

適すにせよ適しないにせよ恋愛というものは、幾世紀を通じて社会の機会的なからくりに反逆して来たもう一つの小さな社会ではないのかという点にある。

 

 

感想

高校生の頃からずっと『Xへの手紙』は私のバイブル

昔書き出したのをまとめたから、順番はめちゃくちゃ

人生がしんどくなると、私はいつもこの本の言葉に戻ってくるな

 

  

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

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