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読んだ本の記録とメモ

有島武郎『惜しみなく愛は奪う』

有島武郎『惜しみなく愛は奪う』メモ

 

私は私のもの、私のただ一つのもの。私は私自身を何物にも代え難く愛することから始めねばならない。

言葉は意味を表す為めに案じ出された。然しそれは当初の目的から段々に堕落した。心の要求が言葉を創った。然し今は物がそれを占有する。吃る事なしには私達は自分の心を語る事が出来ない。恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢であるためしがない。心から心に通う為めには、何んという不完全な乗り物に私達は乗らねばならぬのだろう。

私達は自分の言葉故に人の前に高慢となり、卑屈となり、狡智となり、魯鈍となる。

それは悲しい事には私が弱いからだ。私は弱い者の有らゆる窮策によく通じている。僅かな原因ですぐ陥った一つの小さな虚偽の為めに、二つ三つ四つ五つと虚偽を重ねて行かねばならぬ、その苦痛をも知っている。弱いが故に強いて自分を強く見せようとして、いつでも胸の中を戦慄させていねばならぬ不安も知っている。苦肉の策から、自分の弱味を殊更に捨て鉢に人の前にあらわに取り出して、不意に乗じて一種の尊敬を、そうでなければ一種の憐憫を、搾り取ろうとする自涜も知っている。弱さは真に醜さだ。それを私はよく知っている。

 

本当は私も強い人になりたい。

 

私にはまださもしい未練が残っていて、凡てを仮象の戯れだと見て心を安んじていることが出来ない。そこには上品とか聡明とかいうことから遙かに遠ざかった多くの vulgarity が残っているのを私自身よく承知している。私は全く凡下な執着に駆られて齷齪する衆生の一人に過ぎない。ただ私はまだその境界を捨て切ることが出来ない。そして捨て切ることの出来ないのを悪いことだとさえ思わない。漫然と私自身を他の境界に移したら、即ち私の個性を本当に知ろうとの要求を擲ったならば、私は今あるよりもなお多くの不安に責められるに違いないのだ。だから私は依然として私自身であろうとする衝動から離れ去ることが出来ない

 

だから私がお前に望むところは、私の要求を、お前が外界の標準によって、支離滅裂にすることなく、その全体をそのまま摂受して、そこにお前の満足を見出す外にない。これだけの用意が出来上ったら、もう何の躊躇もなく驀進すべき準備が整ったのだ。私の誇りかなる時は誇りかとなり、私の謙遜な時は謙遜となり、私の愛する時愛し、私の憎む時憎み、私の欲するところを欲し、私の厭うところを厭えばいいのである。 かくしてお前は、始めてお前自身に立ち帰ることが出来るだろう。この世に生れ出て、産衣を着せられると同時に、今日までにわたって加えられた外界の圧迫から、お前は今始めて自由になることが出来る。

 

お前の手は、お前の頭は、お前の職業は、いかに分業的な事柄にわたって行こうとも、お前は常にそれをお前の個性なる私に繋いでいるからだ。

 

 秩序もなく系統もなく、ただ喜びをもって私は書きつづける。

 

センティメンタリズム、リアリズム、ロマンティシズム──この三つのイズムは、その何れかを抱く人の資質によって決定せられる。或る人は過去に現われたもの、若しくは現わるべかりしものに対して愛着を繋ぐ。そして現在をも未来をも能うべくんば過去という基調によって導こうとする。凡ての美しい夢は、経験の結果から生れ出る。経験そのものからではない。そういう見方によって生きる人はセンティメンタリストだ。 また或る人は未来に現われるもの、若しくは現わるべきものに対して憧憬を繋ぐ。既に現われ出たもの、今現われつつあるものは、凡て醜く歪んでいる。やむ時なき人の欲求を満たし得るものは現われ出ないものの中にのみ潜んでいなければならない。そういう見方によって生きる人はロマンティシストだ。 更に又或る人は現在に最上の価値をおく。既に現われ終ったものはどれほど優れたものであろうとも、それを現在にも未来にも再現することは出来ない。未来にいかなるよいものが隠されてあろうとも、それは今私達の手の中にはない。現在には過去に在るような美しいものはないかも知れない。又未来に夢見られるような輝かしいものはないかも知れない。然しここには具体的に把持さるべき私達自身の生活がある。全力を尽してそれを活きよう。そういう見方によって生きる人はリアリストだ。 第一の人は伝説に、第二の人は理想に、第三の人は人間に。

 

私にも私の過去と未来とはある。然し私が一番頼らねばならぬ私は、過去と未来とに挾まれたこの私だ。現在のこの瞬間の私だ。私は私の過去や未来を蔑ろにするものではない。

 

即ち過去に対しては感情の自由を獲得し、未来に対しては意志の自由を主張し、現在の中にのみ必然の規範を立しようとするものだ。

 

人は運命の主であるか奴隷であるか。この問題は屡〻私達を悒鬱にする。この問題の決定的批判なしには、神に対する悟りも、道徳律の確定も、科学の基礎も、人間の立場も凡て不安定となるだろう。

 

 同時に本能の生活には道徳はない。従って努力はない。この生活は必至的に自由な生活である。必至には二つの道はない。二つの道のない所には善悪の選択はない。故にそれは道徳を超越する。自由は sein であって sollen ではない。二つの道の間に選ぶためにこそ努力は必要とせられるけれども、唯一筋道を自由に押し進むところに何の努力の助力が要求されよう。 私は創造の為めに遊戯する。私は努力しない。従って努力に成功することも、失敗することもない。成功するにつけて、運命に対して謙遜である必要はない。又失敗するにつけて運命を顧みて弁疏させる必要もない。凡ての責任は──若しそれを強いて言うならば──私の中にある。凡ての報償は私の中にある

 

自由なる創造の世界は遊戯の世界であり、趣味の世界であり、無目的の世界である。努力を必要としないが故に遊戯と云ったのである。義務を必要としないが故に趣味といったのである。生活そのものが目的に達する手段ではないが故に無目的といったのである。緩慢な、回顧的な生活にのみ囲繞されている地上の生活に於て、私はその最も純粋に近い現われを、相愛の極、健全な愛人の間に結ばれる抱擁に於て見出だすことが出来ると思う。

 

彼等の床に近づく前に道徳知識の世界は影を隠してしまう。二人の男女は全く愛の本能の化身となる。その時彼等は彼等の隣人を顧みない、彼等の生死を慮らない。二人は単に愛のしるしを与えることと受け取ることとにのみ燃える。そして忘我的な、苦痛にまでの有頂天、それは極度に緊張された愛の遊戯である。その外に何物でもない。しかもその間に、人間のなし得る創造としては神秘な絶大な創造が成就されているのだ。ホイットマンが「アダムの子等」に於て、性慾を歌い、大自然の雄々しい裸かな姿を髣髴させるような瞬間を讃美したことに何んの不思議があろう。そしてエマアソンがその撤回を強要した時、敢然として耳を傾けなかった理由が如何に明白であるよ。肉にまで押し進んでも更に悔いと憎しみとを醸さない恋こそは真の恋である。その恋の姿は比べるものなく美しい。

 

愛といえば人は常識的にそれが何を現わすかを朧ろげながらに知っている

 

人は愛を考察する場合、他の場合と同じく、愛の外面的表現を観察することから出発して、その本質を見窮めようと試みないだろうか。ポーロはその書翰の中に愛は「惜みなく与え」云々といった、それは愛の外面的表現を遺憾なくいい現わした言葉だ。愛する者とは与える者の事である。彼は自己の所有から与え得る限りを与えんとする。彼からは今まであったものが失われて、見たところ貧しくはなるけれども、その為めには彼は憂えないのみか、却って欣喜し雀躍する。これは疑いもなく愛の存するところには何処にも観察される現象である。実際愛するものの心理と行為との特徴は放射することであり与えることだ。人はこの現象の観察から出発して、愛の本質を帰納しようとする。そして直ちに、愛とは与える本能であり放射するエネルギーであるとする。多くの人は省察をここに限り、愛の体験を十分に噛みしめて見ることをせずに、逸早くこの観念を受け入れ、その上に各自の人生観を築く。この観念は私達の道徳の大黒柱として認められる。愛他主義の倫理観が構成される。そして人間生活に於ける最も崇高な行為として犠牲とか献身とかいう徳行が高調される。そして更にこの観念が、利己主義の急所を衝くべき最も鋭利な武器として考えられる。

 

愛の本質を、与える本能として感ずることが出来ない。私の経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代りに奪う本能であり、放射するエネルギーである代りに吸引するエネルギーである。

 

 

私は私自身を愛しているか。私は躊躇することなく愛していると答えることが出来る。

私は他を愛しているか。これに肯定的な答えを送るためには、私は或る条件と限度とを附することを必要としなければならぬ。他が私と何等かの点で交渉を持つにあらざれば、私は他を愛することが出来ない。切実にいうと、私は己れに対してこの愛を感ずるが故にのみ、己れに交渉を持つ他を愛することが出来るのだ。私が愛すべき己れの存在を見失った時、どうして他との交渉を持ち得よう。そして交渉なき他にどうして私の愛が働き得よう。だから更に切実にいうと、他が何等かの状態に於て私の中に摂取された時にのみ、私は他を愛しているのだ。然し己れの中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明かに己の一部分だ。だから私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することに於て己れを愛しているのだ。そして己れをのみだ

 

愛は本能である。かくの如き境地に満足する訳がない。私の愛は私の中にあって最上の生長と完成とを欲する。私の愛は私自身の外に他の対象を求めはしない。私の個性はかくして生長と完成との道程に急ぐ。然らば私はどうしてその生長と完成とを成就するか。それは奪うことによってである。愛の表現は惜みなく与えるだろう。然し愛の本体は惜みなく奪うものだ。

 

 

終るように、私の個性は絶えず外界を愛で同化することによってのみ生長し完成してゆく。外界に個性の貯蔵物を投げ与えることによって完成するものではない。例えば私が一羽のカナリヤを愛するとしよう。私はその愛の故に、美しい籠と、新鮮な食餌と、やむ時なき愛撫とを与えるだろう。人は、私のこの愛の外面の現象を見て、私の愛の本質は与えることに於てのみ成り立つと速断することはないだろうか。然しその推定は根柢的に的をはずれた悲しむべき誤謬なのだ。私がその小鳥を愛すれば愛する程、小鳥はより多く私に摂取されて、私の生活と不可避的に同化してしまうのだ。唯いつまでも分離して見えるのは、その外面的な形態の関係だけである。小鳥のしば鳴きに、私は小鳥と共に或は喜び或は悲しむ。その時喜びなり悲しみなりは小鳥のものであると共に、私にとっては私自身のものだ。私が小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥はより多く私そのものである。私にとっては小鳥はもう私以外の存在ではない。小鳥ではない。小鳥は私だ。私が小鳥を活きるのだ。

The little bird is myself, and I live a bird)“I live a bird”……英語にはこの適切な愛の発想法がある。若しこの表現をうなずく人があったら、その人は確かに私の意味しようとするところをうなずいてくれるだろう。私は小鳥を生きるのだ。だから私は美しい籠と、新鮮な食餌と、やむ時なき愛撫とを外物に恵み与えた覚えはない。私は明かにそれらのものを私自身に与えているのだ。私は小鳥とその所有物の凡てを残すところなく外界から私の個性へ奪い取っているのだ。

 

見よ愛は放射するエネルギーでもなければ与える本能でもない。愛は掠奪する烈しい力だ。与えると見るのは、愛者被愛者に直接の交渉のない第三者が、愛するものの愛の表現を極めて外面的に観察した時の結論に過ぎないのを知るだろう。

 

一度愛した経験を有するものは、愛した結果が何んであるかを知っている、それは不可避的に何等かの意味の獲得だ。一度この経験を有ったものは、再び自分の心の働きを利他主義などとは呼ばない筈だ。他に殉ずる心などとはいわない筈だ。そういうことはあまり勿体ないことである。 

 

愛は自己への獲得である。愛は惜みなく奪うものだ。愛せられるものは奪われてはいるが、不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている

 

若し私が愛するものを凡て奪い取り、愛せられるものが私を凡て奪い取るに至れば、その時に二人は一人だ。そこにはもう奪うべき何物もなく、奪わるべき何者もない。 だからその場合彼が死ぬことは私が死ぬことだ。殉死とか情死とかはかくの如くして極めて自然であり得ることだ。然し二人の愛が互に完全に奪い合わないでいる場合でも、若し私の愛が強烈に働くことが出来れば、私の生長は益〻拡張する

 

権力と輿論とは智的生活の所産である。権威と独創とは本能的生活の所産である。そして現世では、いつでも前者が後者を圧倒する。 

 

釈迦は竜樹によって、基督は保羅によって、孔子朱子によって、凡てその愛の宝座から智慧と聖徳との座にまで引きずりおろされた。        

 

愛を優しい力と見くびったところから生活の誤謬は始まる。

 

女は持つ愛はあらわだけれども小さい。男の持つ愛は大きいけれども遮られている。そして大きい愛は屡〻あらわな愛に打負かされる。        

 

ダヴィンチは「知ることが愛することだ」といった。愛することが知ることだ。        

 

人の生活の必至最極の要求は自己の完成である。社会を完成することが自己の完成であり、自己の完成がやがて社会の完成となるという如きは、現象の輪廻相を説明したにとどまって、要求そのものをいい現わした言葉ではない。 自己完成の要求が誤って自己の一局部のそれに向けられた瞬間に、自己完成の道は跡方もなく崩れ終る。

 

本能の本質は所有的動向である。そしてその作用の結果が創造である。

 

 凡ての思想凡ての行為は表象である。 表象とは愛が己れ自ら表現するための煩悶である。その煩悶の結果が即ち創造である。芸術は創造だ。故に凡ての人は多少の意味に於て芸術家であらねばならぬ。

 

 何故に恋愛が屡〻芸術の主題となるか。芸術は愛の可及的純粋な表現である。そして恋愛は人間の他の行為に勝って愛の集約的な、そして全体的な作用であるからだ。

そのためには彼は一見彼に利益らしく見える結果にも惑わされない。彼には専念すべきただ一事がある。それは彼の力の及ぶかぎり、愛の純粋な表現を成就しようということだ。縦令その人が政治にかかわっていようが、生産に従事していようが、税吏であろうが、娼婦であろうが、その粗雑な生活材料のゆるす限りに於て最上の生活を目指しているのである。それらの人々の生活はそのままよき芸術だ。彼等が表現に役立てた材料は粗雑なものであるが故に、やがては古い皮袋のように崩れ去るだろうけれども、そのあとには必ず不思議な愛の作用が残る。粗雑な材料はその中に力強く籠められる愛の力によって破れ果て、それが人類進歩の妨げになるようなことはない。けれども愛の要求以上に外界の要求に従った人たちの建て上げたものは、愛がそれを破壊し終る力を持たない故に、いつまでもその醜い残骸をとどめて、それを打ち壊す愛のあらわれる時に及ぶ。

 

出でよ詩人よ。そして私達が直下に愛と相対し得べき一路を開け。

 

人間は十分に恵まれている。私達は愛の自己表現の動向を満足すべき有らゆる手段を持っている。厘毛の利を争うことから神を創ることに至るまで、偽らずに内部の要求に耳を傾ける人ほど、彼は裕かに恵まれるであろう。凡ての人は芸術家だ。そこに十二分な個性の自由が許されている。私は何よりもそれを重んじなければならない。

 

若し少女がその人の愛に酬いることを拒まねばならなかった場合はどうだ。その場合でも彼の個性は愛したことによって生長する。悲しみも痛みもまた本能の糧だ。少女は永久に彼の衷に生きるだろう。そして更に附け加えることが許されるなら、彼の肉慾は著しくその働きを減ずるだろう。そこには事件の精神化がおのずから行われるのだ。若し然しその人の個性がその事があったために分散し、精神が糜爛し、肉慾が昂進したとするならば、もうその人に於て本能の統合は破れてしまったのだ。本能的生活はもうその人とは係わりはない。然しそんな人を智的生活が救うことが出来るか。彼は道徳的に強いて自分の行為を律して、他の女に対してその肉慾を試みるようなことはしないかも知れない。然しその瞬間に彼は偽善者になり了せてしまっているのだ。彼はその心に姦淫しつづけなければならないのだ。それでもそれは智的生活の平安の為めには役立つかも知れない。

 

 

個性はもはや個性の社会に対する本能的要求を以て満足せず、個性自身、その全体の満足の中にのみ満足する。そこには競争すべき外界もなく、扶助すべき外界もない。人間は愛の抱擁にまで急ぐ。彼の愛の動くところ、凡ての外界は即ち彼だ。我の正しい生長と完成、この外に結局何があろうぞ。

 

私の態度を憎むものは、私の意見を無視すればそれで足りる。けれども私は私自身を無視しはしない。

 

美しく磨き上げられた個性は、恩を知ることが出来ないとでもいうのか。余りなる無理解。不必要な老婆親切。私は父である。そして父である体験から明かにいおう。私は子供に感謝すべきものをこそ持っておれ、子供から感謝さるべき何物をも持ってはいない。私が子供に対して払った犠牲らしく見えるものは、子供の愛によって酬いられてなお余りがある。それが何故分らないのだろう。正しき仕事を選べと教えるように、私は、私の子供に子供自身の価値が何であるかを教えてもらいたい。彼はその余の凡てを彼自身で処理して行くだろう

 

男女の愛は本能の表現として純粋に近くかつ全体的なものである。同性間の愛にあっては本能は分裂して、精神的(若し同性間に異性関係の仮想が成立しなければ)という一方面にのみ表現される。親子の愛にしても、兄弟の愛にしても皆等しい。然し男女の愛に於て、本能は甫めてその全体的な面目を現わして来る。愛する男女のみが真実なる生命を創造する。だから生殖の事は全然本能の全要求によってのみ遂げられなければならぬのだ。

 

 楽園は既に失われた。男女はその腰に木の葉をまとわねばならなくなった。女性は男性を恨み、男性は女性を侮りはじめた。恋愛の領土には数限りもなく仮想的恋愛が出現するので、真の恋愛をたずねあてるためには、女性は極度の警戒を、男性は極度の冒険をなさねばならなくなった。野の獣にも生殖を営むべき時期は一年の中に定まって来るのに、人間ばかりは已む時なく肉慾の為めにさいなまれなければならぬ。しかも更に悪いことには、人間はこの運命の狂いを悔いることなく、殆んど捨鉢な態度で、この狂いを潤色し、美化し、享楽しようとさえしているのだ。

 

私達は幸いにして肉体の力のみが主として生活の手段である時期を通過した。頭脳もまた生活の大きな原動力となり得べき時代に到達した。女性は多くを失ったとしても、体力に失ったほどには脳力に失っていない。これが女性のその故郷への帰還の第一程となることを私は祈る。この男女関係の堕落はどれ程の長い時間の間に馴致されたか、それは殆んど計ることが出来ない。然しそれが堕落である以上は、それに気がついた時から、私達は楽園への帰還を企図せねばならぬ。一人でも二人でも、そこに気付いた人は一人でも二人でも忍耐によってのみ成就される長い旅に上らなければならない。

 

男性はその凡ての機関の恰好な使用者であるけれども、女性がそれに与かるためには、或る程度まで男性化するにあらざれば与かることが出来ない。男性は巧みにも女性を家族生活の片隅に祭りこんでしまった。しかも家族生活にあっても、その大権は確実に男性に握られている。家族に供する日常の食膳と、衣服とは女性が作り出すことが出来よう。然しながら饗応の塩梅と、晴れの場の衣裳とは、遂に男性の手によってのみ巧みに作られ得る。それは女性に能力がないというよりは、それらのものが凡てその根柢に於て男性の嗜好を満足するように作られているが故に、それを産出するのもまたおのずから男性の手によってなされるのを適当とするだけのことだ。

 

女性が今の文化生活に与ろうとする要求を私は無下に斥けようとする者ではない。それは然しその成就が完全な女性の独立とはなり得ないということを私は申し出したい。若し女性が今の文化の制度を肯定して、全然それに順応することが出来たとしても、それは女性が男性の嗜好に降伏して自分達自らを男性化し得たという結果になるに過ぎない。それは女性の独立ではなく、女性の降伏だ。

 

それにも増して私が女性に望むところは、女性が力を合せて女性の中から女性的天才を生み出さんことだ。男性から真に解放された女性の眼を以て、現在の文化を見直してくれる女性の出現を祈らんことだ。女性の要求から創り出された文化が、これまでの文化と同一内容を持つだろうか、持たぬだろうか、それは男性たる私が如何に努力しても、臆測することが出来ない。そして恐らくは誰も出来ないだろう。その異同を見極めるだけにでも女性の中から天才の出現するのは最も望まるべきことだ。同じであったならそれでよし、若し異っていたら、男性の創り上げた文化と、女性のそれとの正しき抱擁によって、それによってのみ、私達凡ての翹望する文化は成り立つであろう。

 

更に私は家族生活について申し出しておく。家族とは愛によって結び付いた神聖な生活の単位である。これ以外の意味をそれに附け加えることは、その内容を混乱することである。法定の手続と結婚の儀式とによって家族は本当の意味に於て成り立つと考えられているが、愛する男女に取っては、本質的にいうと、それは少しも必要な条件ではない。又離婚即ち家族の分散が法の認許によって成り立つということも必要な条件ではない。凡てかかる条件は、社会がその平安を保持するために案出して、これを凡ての男女に強制しているところのものだ。国家が今あるがままの状態で、民衆の生活を整理して行くためには、家族が小国家の状態で強国に維持されることを極めて便利とする。又財産の私有を制度となさんためには、家族制度の存立と財産継承の習慣とが欠くべからざる必要事である。これらの外面的な情実から、家族は国家の柱石、資本主義の根拠地となっている。その為めには、縦令愛の失われた男女の間にも、家族たる形体を固守せしめる必要がある。それ故に家族の分散は社会が最も忌み嫌うところのものである。

 

 

おしなべての男女もまた、社会のこの不言不語の強圧に対して柔順である。彼等の多数は愛のない所にその形骸だけを続ける。男性はこの習慣に依頼して自己の強権を保護され、女性はまたこの制度の庇護によってその生存を保障される。そしてかくの如き空虚な集団生活の必然的な結果として、愛なき所に多数の子女が生産される。そして彼等は親の保護を必要とする現在の社会にあって(私は親の保護を必要としない社会を予想しているが故にかくいうのだ)親の愛なくして育たねばならぬ。そして又一方には、縦令愛する男女でも、家族を形造るべき財産がないために、結婚の形式を取らずに結婚すれば、その子は私生児として生涯隣保の擯斥を受けねばならぬ。

 

 

第一この制度の強制的存在のために、家族生活の神聖は、似而非なる家族の交雑によって著しく汚される。愛なき男女の結合を強制することは、そのまま生活の堕落である。愛によらざる産子は、産者にとって罪悪であり、子女にとって救われざる不幸である。愛によって生れ出た子女が、侮辱を蒙らねばならぬのは、この上なき曲事である。私達はこれを救わなければならない。それが第一の喫緊事だ。それらのことについて私達はいかなるものの犠牲となっていることも出来ない。若しこの欲求の遂行によって外界に不便を来すなら、その外界がこの欲求に適応するように改造されなければならぬ筈だ。 愛のある所には常に家族を成立せしめよ。愛のない所には必ず家族を分散せしめよ。この自由が許されることによってのみ、男女の生活はその忌むべき虚偽から解放され得る。自由恋愛から自由結婚へ。 

 

 

更に又、私は恋愛そのものについて一言を附け加える。恋愛の前に個性の自己に対する深き要求があることを思え。正しくいうと個性の全的要求によってのみ、人は愛人を見出すことに誤謬なきことが出来る。そして個性の全的要求は容易に愛を異性に対して動かさせないだろう。その代り一度見出した愛人に対しては、愛はその根柢から揺ぎ動くだろう。かくてこそその愛は強い。そして尊い。愛に対する本能の覚醒なしには、縦令男女交際にいかなる制限を加うるとも、いかなる修正を施すとも、その努力は徒労に終るばかりであろう。        

 

生命の向上は思想の変化を結果する。思想の変化は主張の変化を予想する。生きんとするものは、既成の主張を以て自己を金縛りにしてはなるまい。

 

思想は一つの実行である。私はそれを忘れてはいない。

 

これは哲学の素養もなく、社会学の造詣もなく、科学に暗く宗教を知らない一人の平凡な偽善者の僅かばかりな誠実が叫び出した訴えに過ぎない。この訴えから些かでもよいものを聴き分けるよい耳の持主があったならば、そしてその人が彼の為めによき環境を準備してくれたならば、彼もまた偽善者たるの苦しみから救われることが出来るであろう。 

 

凡てのよきものの上に饒かなる幸あれ。

 

 

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大野靖子『少女伝』

大野靖子『少女伝』メモ

p16

たとえ母と子であっても波長が合わないかぎりはだめなのだ。それを思い知った瞬間こそ幼い麻子の母離れ、自立への出発だったのかもしれない。

 

p23

子供は母親の分身というが、自分と瓜二つの長男を失ってしまったのだ。

 

p35

考えてみれば麻子は自分の部屋を持っていなかった。ではどこにいたのだろう。絶えず誰もいない空間を探しては、そこにいたのだ。浅野の家人たちが右往左往する隙間の空間にいつも麻子はいた。部屋を貰ったことで麻子は逆に困惑し、これからどうするのか、逃げ場のない現実が麻子に迫った。

 

p36

夢のような宝塚の舞台を見せてくれた。

 

p58

「こういう時、感情的になるとどっと疲労し、自分が倒れる。いろいろあっても、全部受け入れてやり過ごしてゆこう」これが父の決意だった。

 

p61

苦痛のない平穏な肉体と心がどれほど心地よいものか。

 

その間に死はせわしなく麻子の周囲で跳ね飛んで遊んでいるようだった。

 

p64

麻子がねぼけ眼をこすりながら市川さんの家に行った時には、母の節子がそのことには慣れきった様子で、正美にも熱い湯を絞った手拭いを持たせ、遺体を拭き清め、新しい単衣を着せ、死の床をつくり終っていた。

 

p67

与えられた薬も捨てて、緩慢な自殺行為をつづけ、とうとうやせおとろえて起き上がることができなくなった。

 

p68

麻子は達夫がやったように街をさまよい、映画を見歩き、兄と姉に映画の筋から街行く人たちの様子まで克明に伝えた。一畳敷の廊下の真ん中に陣取って、左右の兄、姉に外界の情報を提供するのが麻子の役目ときめた。身動きできなくなった達夫と悦子は、妹の話に熱心に聞き入っていた。

空想の中だけでいい。麻子は悦子や達夫の手を引いて街を歩き、共に映画を見ているように身振り手振りをまじえ、あるだけの知恵をしぼり、映画のストーリーや俳優の魅力を情熱をこめて話した。姉や兄をもう一度麻布の街の中へ解放してやりたかった。麻子は姉と兄を連れて 十番通りを、永坂を、鳥居坂を、六本木を、日活を、新興を、一之橋の大都映画館を、芝園館を、得意の速い席取りで掛けさせ、自由に映画を見せてやりたかった。自由を与えてやりたかった。

 

p70

それは麻子の人生の中で出会った最大の悲哀の光景だったろう。

 

p74

全体的に漠然とした黄土色の色調で、その絵は不安感に満ち、恐る恐る外界をのぞいている悦子から伝わってくるものは、怯えだった。外界に対していつも悦子は怯えていたのか。はなやかな、きわだった美を持って生まれた姉が、絶えず外界に対して恐れと不安を持っていたなど誰も気がつくものはいなかった。その不安や怯えが一気に炸裂するまで、精神病の知識に不案内な両親も弟も妹も気づかなかったのだ。そんなデリカシイのない家族に取り囲まれ、タングステンが震えるように姉の心はいつもおののいていたのだ。

 

p76

麻子は一瞬とまどったものの、浅草から逃げて来た人の火傷、家族七人あっというまに失くしてしまった悲惨さの実感があったので素直に頷いたが、お腹の中ではその時になってみなければ自分がどう行動するのかわからないと思った。そういう時こそ人間の本質がわかるだろう。その時はその時、親を捨てて逃げるというみにくい行動に出たとしても後悔はすまいと覚悟を定めた。麻子は死に慣れきっていたのだ。

 

p80

運命に明暗の岐路があるとすれば今だ。

 

p81

麻子に人間とは死と狂気を生きるものだということを骨の髄まで叩きこんでくれた、姉や兄たちよ。綺麗な慈顔を残して何一つ報われぬまま死んだ父よ。口には出さなかったが麻子が心から愛した浅野の家族たちよ、麻布の街よさようなら。

 

p82

麻子は生き残れるか残れないか、この瞬間の行動こそそれを分けるのだと思った。身体中にたけりつけたような力がみなぎり、恐怖はなかった。

 

 

p95

麻子は照江のような無邪気でむきだしな好意を寄せられたことがないのでいつも不可解な気持ちのまま蒸しパンや繊維の固い裏山の細い筍や、鯡の固い小片や煮干しを口の中に突っ込まれる。

 

 

p100

この夜の炎上を「お父さんが空襲前に死んでくれて助かった。清めの火だ」と呟いたのは麻子の母の節子だけだったろう。

 

浅野家の家長であった栄蔵は、情愛の深い人だった。誰よりも母の節子を愛したし、子供達をありったけの愛情で包み込んだ。父親は、照れることなしに子供たちへ愛情を注いだ。浅野の家には、いつも父親の土産ものの銀座の高級店のチョコレートがあったし、しかもそれを女中までいれて家族で福引したり、休みの日は多摩川の川原へ家族全員を連れてハイキングに行った。二番地の露地奥から引っ越した表通りの一番地の新しい家も、日光が充分入るようにとガラス張りであったし、その金を手にいれるために父親はどんなアルバイトも平気で引き受けた。家作の管理、家賃の取立てから、土木測量の実務、仕事上の相談ごと、なんでも引受け、それを収入に代え、妻と子供につぎこんだ。

母の節子もよく協力した。二人とも戸籍には庶子とある。つまり母も父も妾の子で、自分の家族を持つことが夢であり、それに異常な情熱を注いだのである。

 

 

p102

母親の節子は正直な人で、思ったことをすぐ口に出す。この時も「カスばかりが生き残った」と言った。その通りだと思って麻子の心は傷つくこともなかった。

 

p113

性欲シーンは映画に出てくる美男美女の演ずるものと思い込んでいた麻子には衝撃だったが、口がさけても川辺夫人には勿論、他へ言いつけ口しては大変なことになることぐらい麻子には分っている。

 

麻子は言っていいことと悪いことの区別はつく、それほどお粗末な人間ではない、の思いを籠めて睨み返し、力をこめ、しかし静かにつねられた腕をふり払い、無言でその場を離れた。

 

p114

切羽つまってやった行為なのか、二人の子供を食わせるための行為か、麻子には判断がつかなかったが、おアイさんから人間の営みのシンズイを教えられた思いで、そのふてぶてしさを、自分も学ばなければ、これから先、生き延びてゆくことは出来まいと、むしろおアイさんへ親近感を持ったのに、睦子は麻子を永久に許さないだろうと麻子は思った。

 

 

p116

ああいう優しい手つきで頭を撫でて貰った経験が一度あった。誰も「麻子さんは頭がいい」と褒めてくれるが、頭のいいと思われた子は頭を撫でて貰えないのか。母親は勿論、父からも姉や兄からもしてもらえなかった。それをしてくれたのは小学校の給仕さんで、名前さえ聞かなかった人だ。

 

 

p120

「忘れるっていったって記憶を消すには時間がかかるでしょ。がまんしなきゃ」

優子の顔がひきしまり、「がまんなんかしないわ。すぐ記憶を消したいの」

「消す、消すっていったって……」

そこまで言って麻子はギョッと優子を見つめ直した。いつものようにうつむいて長い睫毛を伏せている優子に異常さは感じられなかったが、麻子の胸の中で「消す」が「殺す」につながった。瞬間、少女二人の呼吸がとまった。

 

「そうか、優子とはそういう少女だったのか」何故優子に惹かれるのか分かった。いざという時の殺意。優子のたおやかな身体の芯には他への殺意がひそんでいたからだろう。

「いいんじゃない。わたし達もいつ死ぬか分からないし、手伝うわ。村松さんがそこまで決心しているなら」

 

 

p121

「そうか……」麻子は、自分を犯した須見中尉を絶対ゆるさない優子の殺意にまでつながる矜持の高さに惹かれたのか。その矜持からさわさわ伝わってくる冷気の心地良さが麻子を魅了してやまなかったのだと、納得した。

優子は恐い少女だったのだ。

 

「復讐ね。手伝う。どうせ、戦争に負けたら、あたし達は死ぬのよ。何をやってもいいんじゃない。心残りになるようなことは、すべてきっぱり処理して死のうよ」

 

 

p123

それは柔らかくあたたかく、可愛げでさえあった。掌の中で怒張してゆく原准尉の男の生理の不思議を麻子は掌の中で感じていた。

 

 

「なあ浅野筆生(麻子たち事務員は筆生と呼ばれていた)、世の中どうしてこう不公平に出来てるんだ。俺たちの部隊のようにタイプライターと暗号解読本を相手に、敵機が通過してゆく穏やかな田園で敗戦を迎えられる者もいれば、今の今、敵弾を受けてのたうち地獄の苦しみを味わっている兵隊もいる。貧乏人も金持ちも、生まれついて美しい者、醜い者、誰が運命の明暗を分けているんだ。死んでゆく者、生き残る者、どこの何様が定めているんだ。それが運命だとあきらめることは俺は厭だよ。運、不運をぼやいてお互いの傷をなめあう友情だって真っ平だ。

 戦友愛で結ばれた筈の俺たちの部隊が、これだけあっけなく崩れてゆくのを目の前で見ると、余計そう思う。殺す者、殺される者、厭だ。厭だ。人間は、いや人間ばかりじゃない、戦争の中で生きとし生ける物にどうしてこれだけ残酷な別れ道があるんだ。自分の手足が吹っ飛ばない限り、また戦争を始める奴はいるにきまっている。永久に地上から戦争がなくならないのが分かっているから『平和、平和』とみんな叫ぶんだ。地球は自転するというけど、戦争も勝敗が定まった瞬間から、また次の戦争の幕が開くんだ。しかし、分かっていても、分かっていてもな。俺はそんな愚はくりかえさないよ。俺は北海道の農家の伜だが、今度のことで物を考えることを覚えたよ。考えて、考えて、正しいと思った道をまっしぐらにつっ走るよ。いや、亀のようにノロノロでもいい。とにかくアメリカ兵に追われても、逃げて逃げて、逃げ延びて、俺のみつけた道を歩いてゆくんだ。

 とにかく、最大の悲劇は、身をもってそれを知った人たちが、みんな死んでしまっているということだ。自分が撲られなきゃ他人の痛みも分からない。何の被害もなかった人数の方が多いだろう。そいつらが、またいろはのいから始めるんだ。そいつらと闘おうと思うよ。俺は。浅野、傷も薬も乾いた。もう行きなさい」

 

 

p126

くもの子を散らすように建物からバラバラ男たちが逃げてゆく。精神構造はグラグラにゆるぎ、こわれ、ひたすら家へ向かって帰る足取りだけはしっかりと確実であり、うきうき喜びすら感じられる。敗走というものがこんなに単純に気軽に行われるとは麻子は思わなかった。

 

p136

言葉に出したことはなかったが、大切に思い、愛情をそそぎこんだものを失ってしまった。

 

 

p138

事が終わり、一瞬忘我の時が流れたが、急に須見が胸の上に倒れ伏した。ぐぐっとせぐりあげるようにおえつがもれ、何か呟いては泣いた。麻子の手が自然に須見の肩から背へ、そっと男のなめらかな肌をなでていた。かたい乳房ともいえぬ胸に首を押しあててすすり泣いた須見中尉の呟きが分かった。

「俺は根っからのファッショだ。ファッショが好きだ。これからどうしよう」

ファッショがどうなるか知ったことではないが、僅か十七歳の女の手が一人前の男を抱いて愛撫し、その愛撫に身をゆだねている男の姿態に驚き入っていた。これが女というものなのか。女だけが持つ母性というものなのか。何故か掌がいつくしむように優しく男の背を撫でさすっていた。

 

p139

男と女の肉体がからみ合うと、男にはある優しさが生まれるのだろうか。麻子は「あばずれ」と呼ばれたことよりも「俺は根っからのファッショだ。ファッションが好きだ。これからどうしよう」という須見中尉の言葉のほうがひびいた。平和などあり得ない。「俺はファッショだ」そういう男たちは永久になくならないのかもしれない。

 

 

p140

戦争からも処女性からも解き放され、麻子の身体をびっしりたがねていた鋼鉄の輪が瞬時にしてはね飛んだ快感だ。今まで縛りつけられていた道徳も慣習もすべてが音を立てて空間にはじけ飛び、伸びやかに、軽やかに解放の喜びが身体のすみずみへ浸透してゆく。麻子は自分の身体が無限の空間に柔らかく優しくほうり出されたように思えた。

 ああ、なんという快感。だが何故か上昇の気配はなかった。堕ちる予感しかなかった。

 

 

p147

麻子は、一瞬のうちに、桂次に女として身も心も奪われた。桂次にどんな事があっても、たとえ、彼から嫌われても一生ついてゆこう。淡い恋心ではなかった。ひたむきな麻子の初めての恋だった。島木桂次に一生を託そう。

 

 

p148

堕ちるーー。

島木桂次にのめりこむことは、麻子にとって愛の堕落だったろうか。

いろいろ女性関係では話題の豊富な桂次を麻子はどうしても欲しかった。

小さな劇団の演出家だった桂次を、研究生であった麻子は、他の女優ともいえぬ舞台役者の女たちをかき分け、押しのけ、奪い取り、満足だった。彼に抱かれ、彼の体臭に包まれ、情事の後の解放感と安堵感に酔い、ゆるやかに抱かれる時、麻子はこのまま目が覚めなければいいと思う。でも目覚めがやってくると、何事もなかったようにさっさと服を身につけ後も見ずに去ってしまう桂次に、惹かれつつ、不安感が残る。どうしても桂次を我がものにした自信が消えてなくなるのだった。

 

 

p149

それから三度ほど桂次の妹に会ったが、仲のよい兄妹で、桂次が麻子より、いや他のどの女より妹を愛しているのではないかと思った。

 

p150

多感な少女時代、つづけざまに姉や兄たちや父を失い、空襲であとかたもなく家も焼失してしまったせいか、子供心にも自然に無常観がしみつき、四季の変化を川面に映しながら行方も知らず流れてゆく水に愛着が濃かった。

一方に安定したつつましい生活のあることも知らず、どこの家庭も変化の連続があるものと思い込んでいた。それは麻子の心の流浪の始まりであったのかもしれない。

 

ホテルに勤めたのも「桂次のそばにより近くいたい」という思いの他に、あとくされない人の出会いと別離を繰り返し、いつ勤めても、いつ辞めてもいい責任のないメイドという職業が自由を感じさせ、麻子の性にあっていた。

 

p151

そのプレゼントを握りしめ、再び離れては抱き合い熱く長いキスをしていたが、麻子は地味な夫婦と思っていただけに、何かまともな愛をすぐ近くで見て一瞬感動した。

 

p152

たとえかつての敵にしろ、愛の交流の姿は、感動的な姿だと思った。愛が流れあう姿こそ、人間の一番美しい姿なのかもしれない、と麻子は思った。

 

 

p167

それぞれの修羅場を越え、ある種の達観を得た彼女たちは明るく活力に満ちている。

 

p168

彼女らは、とまどいまだ前途に不安を持ちうろうろ生活の手段を考えている大人たちの動揺を越え、活き活きして気持ちよかった。二度と訪れない青春の唄を七重たちは声を張り上げて歌っているようだった。

 

p169

戦争、罹災、飢えが、彼女たち本来の姿を浮き出し、年齢が若くても彼女たちは大人以上に大人であり、自分をふくめて最後の少女時代を美しく生きた少女たちを一生忘れないだろうと麻子は思った。

 

 

p175

ただ刑事がチラと見せてくれた写真の中で理代は胎児のように桂次の胸の中に大切にくるみこまれていた。麻子の胸はかきむしられ、雨をぐっしょり吸い上げた足の冷たさも忘れて、雨水の流れる舗道に崩れ落ちそうになり並木の木にしがみついた。

 

何故「本当の妹か?」と尋ねなかったのか、そのうかつさが麻子の心を打ちくだいた。絶望感で足が動かなかった。

 

 

p178

墓石にしろ墓標にしろ、それは人がこの世に生まれて、幸、不幸はともかく、生きて死んでいった証ではないか。

生き残って墓標を書いた者の、死者に対する愛惜や供養の気持ちをこめて建てたものではないか。

 

p181

好きに生きよう。好きなことだけして生きてゆこう。十九歳になった麻子の新しい決意だった。

 

p192

わずか十五分で帰ってしまう女もいる。ギリギリまで公園かどこかで遊び、その瞬間だけ利用する女もいて、麻子は驚いた。驚きながら麻子は成長していったのだ。毎日が新鮮で、朝目覚める時、今日はどんな人と出会い、どんな事件とぶつかるのか、青春真っ只中の若さに満ちあふれた麻子にとっては眠るも起きるもいっさいの不安も苦渋もない楽しい日々だった。

 

p193

そうして自分のことばかりにかまけていたせいで、妹の芳子のことも母の節子のことも忘れきっていた。

 

p194

一歩病院の外へ出れば、街は相変わらず戦後の活気に満ち『強者は栄え、弱者は亡びよ』と言わんばかりの賑わいを見せている。

 

p197

毎朝の目覚めることに喜びを感じていた麻子だったが、この夜ばかりは朝が来ないで眠りほうけてそのまま目覚めなければいいと思った。

だが、朝は来る。朝の光の中で麻子は運命の転機は今だと悟った。透とははっきり離婚し、心身ともに崩壊寸前の母と妹の傍にいてやろう。

 

p198

麻子は演劇や新演出家の加納舜との情事にかまけ、妹を大人しく行列の最後尾についていつまでも歩かせてはいけない、彼女がやすらかな表情をしていられる場所をもっと真剣に考えてやらなければいけないと、切実に反省した。反省したが、昼間、演劇の勉強、夕方から深夜にかけてバーでアルバイト、夜中には男との情事、麻子はあまりに多忙だった。

 

彼女は麻子の耳元でそっと呟いた。「薬はみんな内緒で捨ててるの。赤ん坊が出来なくなるって聞いたもんだから」

 

p199

麻子は妹が結婚を考え、子を産むつもりでいるのを初めて知った。同室の患者が教えてくれたそうだ。もし、その気があるなら何が起こるかわからない社会だ。芳子にも道が開けるかもしれない。

 

「駄目でもともと。当たって砕けろ」だと麻子は決意した。

 

 

p201

天は二物を与えずというが、芳子は神様から言葉を奪われ、更なる美貌を与えられたことになる。

綱渡りのような人生だが、麻子はやはり生きていることは意外性に満ちて素晴らしいと思った。

 

p202

夫婦としては別れた後も、お互い誘えば拒まぬ関係が、透と麻子のあいだには続いていた。芳子と違い洒落っ気のない麻子は仰向いて「ねえ。どうしてあたしを愛した?」を聞いた。透はふっと笑ってひとり言のように「愚かだから……知ってる、愚かさには愚鈍、魯鈍、痴鈍と三段階あるんだ」。

「あたしはどれ?」

「魯鈍。だから可愛い」そのまま透の胸に縋って魯鈍の意味はわからなくても語感がいいので透の胸に頬をつけた。あたたかく、広く、麻子のその日の疲労や不満が溶けて透が胸の中に吸い込んでくれるようだった。透が麻子に与えたものはやすらぎだけではなかった。

彼が麻子にくれたものの中でいちばん大きなものは、「知性」であったと思う。

 

p203

たあいなくても透が与える安堵感は、子供の頃から誰彼のために気を遣っていた麻子にとってそれはオアシスだった。自分が人生の方向を決めないでいい、社会に向かって浅野の家の代表者の顔で世を渡らなくていい。何事も人任せで生きる楽しさを久しぶりに透の胸の中で味わった。透は海だった。

 

p204

麻子は男と女の愛の関係について幼く無知だったのだろう。透の告白にすずめ蜂に刺されたような衝撃を受けたが、透が麻子を捨てるとは思わなかった。

「よく、私を捨てられたわね」

「先に俺を捨てたのは麻子だろ」

 

p206

舜はおよそ愛の常識に欠けていた。愛されれば愛されっぱなし、嫌われれば嫌われっぱなし、すべて彼にとっては心の動揺がない。彼にとって心の中心にあるものは自分の情熱だけで、他を愛する術を知らない。個性とか自己中心主義とも違う、生まれつきの欠陥人間だ。ただ彼がひたすら愛したのは自分のイメージする舞台への執着心だけのような気がする。

 

麻子と波長があったのは目の前の現実の変化には関心がなく、虚構の舞台の中でだけ楽に呼吸ができる……そうした種類の男と女であったからだろう。

 

p210

「血縁がなんだ。冗談じゃない」憤りに似たものがよぎったが、あとに残された母と妹の心細さを考えると、怒りもおさまってくる。「いけるところまで行こうや」

 

p224

「女に不感症なんていないのよ。相手の男が不器用で、急所をつかめないのよ。知ってる?女はね、初めての男で、男性観も、男遍歴のあり方も変わるんだってさ」

 

p225

笑子はとうにタカ坊と美津子の関係を見抜いていた。美津子はほんとうは龍介が好きなのだが、店の経営を考えればタカ坊はなくてはならない大切な存在だし、秤にかければ龍介の方が軽く上にあがる。そのあたりがクールに判断できなければ、とてもこの土地で店は張ってゆけまいと思った。

 

 

p226

龍介は麻子の身体に馬乗りになると一人で暴れるだけ暴れ、行為を終え、麻子の隣に身をよこたえ、すっかり麻子と世帯を持ったようにやすらかな笑顔で麻子を見詰めている。邪気のない龍介の笑顔を見ていると、笑子が「男の本性は情事のあとでわかるのよ」と言った言葉を思い出し、麻子は、きっと龍介の妻になる人は仕合わせになるだろうと思った。麻子もできるだけ優しい笑顔で彼に応えた。行為の間中、麻子は龍介ではなく、舜の事を考え通していたからだ。

 

美津子は麻子と龍介の関係に敏感に気づいた。極力二人とも注意したのだが、肌が触れあったことは、すぐわかるのか。いままでにない馴れ馴れしさがいくら気をつけても出てしまうに違いない。

 

心底龍介を彼女は愛していたから、自分のものにならなくても、誰にも指一本触れさせたくない若者の筈だった。

 

p227

美津子が創ろうとした店内の空気は変わりつつあったが、本当に嫌なら本店を売って、もっとひっそりした処へ移ればいい、麻子と美津子の似ているところは流転に慣れきってしまっていることだ。生涯一つの処でつつましく平穏に定住できない性格に育ってしまっていたからだろう。

 

p229

麻子の口座をつくり、二十万円を預けた透は、「親父が生きているうちに財産分けをやってくれてね。まとまった金が入ったんだ。こういうチャンスはなかなかないからね。由起子も赤ん坊も残してゆくよ。やっぱりフランスに行くよ。文学ではなく語学のパリ留学だ。麻子はもう困った時に金をせびりにいく相手はいないんだと思わなきゃね。でも現金で渡すと麻子はだらしないからアッという間につかっちまうだろう。銀行へ行って必要なだけ引き出す習慣を身につけておいた方がいい。もう逢えないかもしれない……ちょっと麻子の顔も見ておきたかったからね」。

 

「別れる時は簡潔明瞭にね、感傷は抜きだよ」と透の声が聞こえてくるようだった。

 

 

p231

順の武子に対するひたむきな愛情と、その庇護に心地よく身を委ね、水商売の女たちへの軽蔑を隠すこともしなかった武子の人間性の違いは、美津子ママにも麻子にもわかったが、今の順に何を言っても聞く耳を持たないだろうとほっておいた。

 

p238

青春を諸手を挙げて謳歌し、若さを武器に奔放に生き抜けると思っていたのは、若いものだけが持つ傲慢さなのか、特権なのか。人知を越えた何ものかが、罰を下したのだろうか。偶然の不運だったのだろうか。麻子がそれなりに持っていた生き抜くことへの自信も自負も打ち砕かれ、深い絶望という名の水底へ身体が沈んでゆくようだった。

 

有頂天になって乱脈な男関係に耽ってゆきそうな麻子は、頭から冷たい水を浴びせられたような気がした。どこまで舜についてゆけるのか、不安がこみあげたが、ゆけるところまでゆこうと決心した。ただ、麻子の青春時代と言えるものがこれで終わったと感じた。

 

p240

これから先どんな出逢いがあり、どんな事件との遭遇があり、人々の人生はどう変転してゆくのだろう。

麻子はなんの予測もできない未来を黙ってみつめるだけだった。

 

 

 

感想

高校生ぶりに読んだ。図書館でタイトルに惹かれて読み始め、借りることなく図書館に数度通い読み終えた本。男女関係のシーンや戦中戦後の描写、印象的なシーンがいくつかあって、読後10年近く経ってもずっと心に残っていた。

私にとっていろんな考え方の基礎みたいになった本だった。

昨年、ゴールデン街に行って人に話したことをきっかけに、この本を購入した。読み直してみて、所々欠落しているシーンや、読み直しての新たな発見がいくつもあって、改めて読んでよかったと思った。

同時に、大野靖子という人を知りたいと思った。

『少女伝』は、自伝的小説だ。凄い本だと思う。死も生も痛々しいくらい直視され、限りなく客観的で、その実その眼差しはなごやかだ。ここまで、徹底して自己や他者と向き合える人を私はしらない。

親子関係、病の家族の話、死、畑泥棒、強姦による処女喪失、男遍歴、そういったものを取り繕ったり隠したり恥じたりせず描写する強さ。きれいなだけじゃない感情を言葉にし、表現することができる気高さ。どこまでいけばこんな人になれるんだろうか。

 

神聖化も卑下もしない。世間知らずな母は、それでも病院を探したり死者への弔いを取り仕切ったし、庇護されるだけの存在ではなかった。幼い麻子に、発狂した姉を精神科に入院される役を担わせるシーンも、家族の弱さを冷静な目で見つめつつ、それに恨み辛みを重ねたりはしない。

居た堪れない場面ですらそこにあった僅かな感情をとり零さない。強姦による処女喪失の直後、強姦相手を慈しみ母性を実感するシーン。さらに、アバズレと罵ってくる相手を許容し、受け止める胆力。強姦自体を望んでいたわけではないと前置きしつつも、解放されたいという望みが薄ら自身の中にあったことを自覚するなんて境地いくら年を重ねたって辿り着ける気がしない。

奔放な男遍歴だって、潔いほどさっぱりと書く。結婚する気はないからと遊び相手の男に対して思うシーンや、幼い頃変態に拐かされた友人の女児に対しての女児が持つ性への志向を示唆するシーン 、米軍相手のパン助やパンパン宿のこと。人が目を背けたり、きれいな言葉で取り繕うことをけっしてしない。

死から目を背けないことと同じくらい、彼女は生から逃げない。性的なこともこれでもかというくらいしっかりと書く。ふてぶてしく生きること。そこにやましさはない。ただ生き抜いた者だけが持つ美しさがある。

 

麻子のものの見方や人生観に私はいたく共鳴してきた。

少女であり続ける力を持った強くて生き抜く力のある女の子。どこまでも人間的なところが愛おしい。人生に起こる辛酸を誰かのものにせず自己に内包して抱えて歩ける人は多くない。自身への仕打ちや起こってきたことを思えば、恨み辛みで腐ったり弱ったりする機会はたくさんあったはずだ。それでも、他者に対して「そういう人」と諦め達観や無常観を兼ね備えられたのは、修羅場を潜り抜けた故の逞しさだったのだろう。

多感な少女時代、つづけざまに姉や兄たちや父を失い、空襲であとかたもなく家も焼失してしまったせいか、子供心にも自然に無常観がしみつき、四季の変化を川面に映しながら行方も知らず流れてゆく水に愛着が濃かった。

一方に安定したつつましい生活のあることも知らず、どこの家庭も変化の連続があるものと思い込んでいた。それは麻子の心の流浪の始まりであったのかもしれない。

こんな人になりたかったと思う。

見たくないものだって目を逸らさず見ることのできる人。幸福な世界の中の不幸も、不運の中の幸福もどちらも存在することを淡々と描くなごやかな眼差しを持った人。

幾人の家族を失い家を失い処女を奪われ、初恋の人に騙され、家族を精神科に入院させ、離婚をし、それでも生を、青春を謳歌する。不幸な顔はけっしてしない。苦しい時は苦しい顔をしてろという野蛮さを一蹴する軽やかさを私は愛してる。罪悪感を植え付ける人間は世の中に溢れているけど、そんなものには見向きもせず、一切悪びれないところに共感が持てる。

ただ自身が生き延びることに徹頭徹尾向き合った人はこんなにもかっこいい。

そして、決して自分が愛したものを見捨てないところも人間っぽくていいなと思った。世の中に対する、薄らとした無関心と無邪気な冷徹さと、情け深さ。相反するようなものをごちゃ混ぜに抱え込む気概。

でも人間ってそうだよね。一面だけで切り捨てられたらどれだけ楽だろうと思うことがよくあるよ。私は、被害者面して生きていきたくはない。かわいそうな子ではない。諸手を挙げて幸福だとは言えないけど、全面的に不幸なんてことはない。どんな状況でも、何かしらの光はどこかにあって、それをどう自分の血肉にするか、それだけがすべて。

折れてしまうことも、絶望の淵に飲み込まれそうになることもある。最近はずっと自死を指向するものに心が持っていかれていたけど、これだけ懸命に生きた人がいると思うと少しだけ力が抜けた。まだどこかで何かに期待しているから、生き辛いんだろうな。

何も持たない私だけど、幼い麻子と同じで健康な身体だけがあった。

自分に起こったことの中にあるどんな小さいことも零さず抱きしめられるようになれたらいいと思う。読んで良かった。

 

 

少女伝

少女伝

 

 

 

安部公房『闖入者』

安部公房『闖入者』メモ

「駄目だ、そんなものじゃ役に立たん。われわれの間では、物的証拠しか通用せんのだ。ね君、こうした事件が、いかにあつかいにくいものであるか、見当がつくだろう。私見をのべさしてもらえば、私は、この種の事件には解決というものがありうるかどうかさえ、疑わしいと思っているのだ、ま、あまり神経質にならずに、うまくやって行くんだな。」

 

所有ということの不確かさが、ぼくをすっかり懐疑的にしてしまっているのでした。

 

「さあ、これで決った。圧倒的多数だね。昔なら少数が多数を暴力で支配し、それに対抗するにも個人的暴力以外に無かったものだが、人間の智恵も進んだものさ。まったく合理的に多数の意志がとおる、しかもその方法が理論的かつ理性的だときている。実に人間的なありかたというべきだね。」

 

「あるものを無いという、そんな具合に言葉を無責任に使うのは、やはり一種の暴力というべきじゃないかね。言葉は人間が社会的生活をする上、欠くべからざる共通の貴重な道具だ。それを勝手に、不当な使い方をする。ファッショ的暴行だ。こういう態度に対しては、われわれは一体どうすべきだろうか?」

 

心情的には、自分が存在することさえ、困難に思われました。

 

「ぼくはこんな状態から脱出したい。君だってそうだろう。」

「そうよ、早く脱出しなければならないわ」

「脱出、……君はいいことを言うね。そうだ、脱出だ。理性をおしまげられて生きて行くことはできない。」

「愛よ。理性じゃなくて、愛が問題なのよ。愛の力だけが生きて行けるんだわ。」

「いいよ、いいよ。理性のないところに愛はないからね。」

「あら、それはちがうのじゃかいかしら。反対よ。愛の上にこそ理性も成立つのよ。」 

 

「デモクラシーの社会では、人格はむろん独立したものよ。」

 

「追い出すですって?私たちが逃出すのよ。」

「そんな必要はない。なにも屈服する必要はないじゃないか。追い出せばいいんだ。あれは明らかにぼくの部屋だよ。それに逃出すったって、この住宅難に、どこに行けばいいって言うんだ。」

「そういう意味じゃないわ。逃出すっていうのは、精神上の問題よ。すべてを耐えうる愛の道に向って逃出すの。」

 

「その人たちは、その後どうなったの?」むすめは岩影を泳ぐ魚のような白い手を、ぼくの胸にのばし、その声は悲しげでまた何んと美しかったことでしょう。「…疲れて、みんな、お休みになりました。」「というと、死んだのだね。」ふと屋根裏の魔法がぼくの目を覆い、むすめを抱きよせて静かに接吻すると、誰かの涙が顔と顔の間の隙間をぬって流れました。

 

愚かにも無意味なる多数をして、真の多数に代らしめよ!

 

感想

約10年ぶりに再読。多数決の話題で人に勧めた手前思い出して読んでみた。多数決の原理、暴力性、多数決と民主主義。少数が多数に脅かされる物語は、現実にも起きている。多数決は本当に正しいのか、疑いを少しも持たない人は自分の良識を考え直してみたほうがいい。多数派の意見が必ずしも正しいわけではない。

『闖入者』は、主人公がいきなりやってきた9人家族に家を乗っ取られ、自己の自由も制限される話だ。誰も守ってはくれない、助けてはくれない。近所と親しくしておかなかったことを主人公は悔やむが、隣人はもちろん、警察も恋人も弁護士も、法そのものも救ってはくれない。侵略は斯様にして起こる。気づいた時にはもう了っている。これは遠くの話ではない。誰にでも起こりうる話だ。

ずっと読んでなかったのに、なぜか印象に残っていた。

読み始めて、嗚呼今の私に刺さる話だと思った。世界的な状況にも当てはまるし、示唆的なんだけど、それより何より今の私のしようもない状況に刺さりすぎた。

この言葉は本当によくわかるし、私はもう所有することも生活も怖い。

所有ということの不確かさが、ぼくをすっかり懐疑的にしてしまっているのでした。

 そして、警察の言うこの言葉が、現代の、そして私の現状の八方塞がり感をよく表している。

「駄目だ、そんなものじゃ役に立たん。われわれの間では、物的証拠しか通用せんのだ。ね君、こうした事件が、いかにあつかいにくいものであるか、見当がつくだろう。私見をのべさしてもらえば、私は、この種の事件には解決というものがありうるかどうかさえ、疑わしいと思っているのだ、ま、あまり神経質にならずに、うまくやって行くんだな。」

 だから、出口は休むことしかないんだよ。なるべく関わらないでいる、ということしか現状解はない。忌々しく不愉快な物語に救いはない。難儀だね。

 

 

安部公房全作品 2

安部公房全作品 2

 

 

 

 

小林秀雄『Xへの手紙』

小林秀雄『Xへの手紙』メモ

 

和やかな眼に出会う機会は実に実に稀れである。和やかな眼だけが恐ろしい、何を見られているかわからぬからだ。和やかな眼だけが美しい、まだ俺には辿りきれない、秘密をもっているからだ。この眼こそ一番張り切った眼なのだ、一番注意深い眼なのだ。たとえこの眼を所有することが難しい事だとしても、人は何故俺の事をあれはああいう奴と素直に言い切れないのだろう。たったそれだけの勇気すら何故持てないのだろう。悧巧そうな顔をしたすべての意見が俺の気に入らない。誤解にしろ正解にしろ同じように俺を苛立てる。同じように無意味だからだ。例えば俺の母親の理解に一と足だって近よる事は出来ない、母親は俺の言動の全くの不可解にもかかわらず、俺という男はああいう奴だという眼を一瞬も失った事はない。

 

俺の様な人間にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだという事を信じたまえ。

 

俺に入用なたった一人の友、それが仮りにきみだとするなら、俺の語りたいたった一つの事とはもう何事であろうと大した意味はない様である。そうではないか。君は俺の結論をわかってくれると信ずる。語ろうとする何物も持たぬ時でも、聞いてくれる友はいなければならぬ。俺の理解した限り、人間というものはそういう具合の出来なのだ。

 

人は愛も幸福も、いや嫌悪すら不幸すら自分独りで所有する事は出来ない。みんな相手と半分ずつ分け合う食べ物だ。その限り俺達はこれらのものをどれも判然とは知っていない。俺の努めるのは、ありのままの自分を告白するという一事である。ありのままな自分、俺はもうこの奇怪な言葉を疑ってはいない。人は告白する相手が見附からない時だけ、この言葉について思い患う。困難は聞いてくれる友を見附ける事だ。だがこの実際上の困難が、悪夢とみえる程大きいのだ。誰も彼もが他人の言葉には横を向いている。迂闊だからではない、他人から加えられた意見を、そのまま土台とした意見を捨てきれないからだ、土台とした為に無意味なほど頑固になった意見を捨てきれないでいるからだ。誰も彼もがお互に警戒し合っている、騙されまいとしては騙し合っている。

 

俺が生きる為に必要なものはもう俺自身ではない、欲しいものはただ俺が俺自身を見失わない様に俺に話しかけてくれる人間と、俺の為に多少は生きてくれる人間だ。

 

誠実という言葉ばかりではない、愛だとか、正義だとか、凡そ発音する度に奇態な音をたてたがる種類の言葉を、なんの羞恥もなく使う人々を、俺は今も猶理解しない。

 

人は女の為にも金銭の為にも自殺する事は出来ない。凡そ明瞭な苦痛の為に自殺する事は出来ない。繰返さざるを得ない名附けようもない無意味な努力の累積から来る単調に堪えられないで死ぬのだ。死はいつも向うから歩いて来る。俺達は彼に会いに出掛けるかも知れないが、邂逅の場所は断じて明されてはいないのだ。

 

別れた今でも充分に惚れている、誰でも一ったん愛した女を憎む事は出来ない。尤も俺もようやく合点した、女との交渉は愛するとか憎むとかいう様な生易しいものじゃない。

 

俺は女と暮してみて、女に対する男のあらゆる悪口は感傷的だという事が解った。

 

女は俺の成熟する場所だった。

と言っても何も人よりましな恋愛をしたとは思っていない。何も彼も尋常な事をやって来た。女を殺そうと考えたり、女の方では実際に俺を殺そうと試みたり、愛しているのか憎んでいるのか判然としなくなって来る程お互の顔を点検し合ったり、惚れたのは一体どっちのせいだか訝り合ったり、相手がうまく嘘をついて呉れないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却ってがっかりしたり、——要するに俺は説明の煩に堪えない。

 

俺は恋愛の裡にほんとうの意味の愛があるかどうかという様な事は知らない、だが少くともほんとうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた同士の認識が、傍人の窺い知れない様々な可能性をもっているという事は、彼等が夢みている証拠とはならない。世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺達は寧ろ覚め切っている、傍人には酔っていると見える程覚め切っているものだ。この時くらい人は他人を間近で仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える、従って無用な思案は消える、現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代る。一切の抽象は許されない、従って明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらい人間の言葉がいよいよ曖昧となっていよいよ生き生きとして来る時はない、心から心に直ちに通じて道草を食わない時はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。

 

女はごく僅少な材料から確定した人間学を作り上げる。これを普通女の無智と呼んでいるが、無智と呼ぶのは男に限るという事をすべての男が忘れている。俺の考えによれば一般に女が自分を女だと思っている程、男は自分は男だと思っていない。この事情は様々の形で現れるがあらゆる男女関係の核心に存する。惚れるというのは言わばこの世に人間の代りに男と女とがいるという事を了解する事だ。女は俺にただ男でいうと要求する、俺はこの要求にどきんとする。

 

これ程簡明素朴な要求が、男にとって極めて難解なものだとは奇っ怪な事である。俺にはどうしても男というものは元来夢想家に出来上っている様な気がする。彼が社会人として常日頃応接しなければならない様々の要求の数がどれ程に上ろうとも、一体彼はこれ程生き生きとした要求に面接する機会が他に一度でもあるだろうかと訝ってみるのだ。彼の知的な夢がどれ程複雑であろうとも、女のたった一言の要求に堪えないとは。だが男は高慢だから(女の高慢などは知れたものだ)ちょっと面喰うがすぐにこれは単なる女の魅力だと高をくくる。そのうちに一種の不安を感じて来る。気が附いた時には戦は了っている。

 

女は男の唐突に欲望を理解しない、或は理解したくない(尤もこれは同じ事だが)。で例えば「どうしたの、一体」などと半分本気でとぼけてみせる。当然この時の女の表情が先ず第一に男の気に食わないから、男は女のとぼけ方を理解しない、或はしたくない。ムッとするとかテレるとか、いずれ何かしら不器用な行為を強いられる。女はどうせどうにでもなってやる積りでいるんだからこの男の不器用が我慢ならない。この事情が少々複雑になると、女は泣き出す。これはまことに正確な実践で、女は涙で一切を解決して了う。と女に欲望が目覚める。男は女の涙に引っかかっていよいよ不器用になるだけでなんにも解決しない。彼の欲望消える。男は女をなんという子供だと思う、自分こそ子供になっているのも知らずに。女は自分を子供の様に思う、成熟した女になっているのも知らずに。

 

こういう処に俺は何かしらのっぴきならない運動を認める。女の仮面や嘘は女の独創であり、言わば女の勇気だとしても、逆に男の智慧にとっては、女の勇気は堪えられない程の虚飾に充ちている。こういう事情にはいつものっぴきならない確定した運動があるのか。俺にはこの言わば人と人との感受性の出会う場所が最も奇妙な場所に見える。

 

適すにせよ適しないにせよ恋愛というものは、幾世紀を通じて社会の機会的なからくりに反逆して来たもう一つの小さな社会ではないのかという点にある。

 

 

感想

高校生の頃からずっと『Xへの手紙』は私のバイブル

昔書き出したのをまとめたから、順番はめちゃくちゃ

人生がしんどくなると、私はいつもこの本の言葉に戻ってくるな

 

  

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

吉田修一『アンジュと頭獅王』

吉田修一『アンジュと頭獅王』メモ

p4

「人の幸せに隔てがあってはならぬ。慈悲の心を失っては人ではないぞ」

 

p78

人は時、時は人、

権現様のお許し以来、赤線青線に立つのは飯盛女

省線の引き込みに並ぶバラックに散る花は、千代に八千代に千年桜、

吉原・洲崎を打ち過ぎて、オリンピックの御一新、

 

p79

磯の香りの品川宿に立つ泡は、けいきけいきと音を立て、

神武・綏靖・安寧・懿徳、

皮籠は揺られて、ほうれほれ。

頭獅王恋しや、ほうれほれ。

明治・大正・昭和・平成、

皮籠は揺られて、ほうれほれ。

令和恋しや、ほうれほうれ。

銀座・赤坂・四谷を打ち過ぎて、

p80

内藤新宿とはこれとかや。

 

 

感想

パークハイアットのお部屋に置いてあったので読んだ。

なんだろうどことなく古川日出男の本を読んでるような感覚になりながら一気に読んだ。

時をかけていく描写が痛快で、文体が軽快で面白い。
写真が入ってたり、1ページの使い方が斬新だったりしてエンターテインメント性あったな〜〜

古典がベースにありながら新しい。不思議な感覚。

途中、記憶がごっちゃになって、かるかやさんでてくるかなと思ってたけど苅萱はまた別の話だった。あと、古典ベースだと『九つの、物語』思い出す。

26歳最後に読んだ本

 

 

アンジュと頭獅王

アンジュと頭獅王

 

 

 

 

今村仁司『近代性の構造』

今村仁司『近代性の構造』メモ 

ナショナリズムインターナショナリズムの循環

比較的社会に危機が少ないときにはコスモポリタニズム的な気運が高まり、危機的な状況になるとナショナリズムが強くなる。近代というのは、政治イデオロギーに即して考えれば、ナショナリズムとコスモポリタニズムという二つの極の間を動いてきたのである。 

 

いかなる意味で国家は幻想的なのか

つまり、近代において国民国家が出てくる場合に、かならずそうした文化闘争が起こり、少数民族の言語あるいは地方言語、方言というものが排除されて、標準語という人工言語のなかに溶かし込まれていくということがある。 

国民国家のポジティヴな側面

一つの政治的共同体に参加するかぎりは、出自のいかんに拘らず、平等な人格として扱われ、諸々の権利を同様に賦与されるという理念は、近代国民国家の成立なしには生まれなかったであろう。

分類装置

近代国民国家は、一方では対等な人間同士の関係をうたいながら、実質的には、その対等な人間関係ではなく、非対等な人間群を分類する装置にもなっていく。すなわち、同一化可能な人間は受け入れるが、同一化しにくい人間は排除するということである。どの人間がアクセプタブル(accptable)であるか、どの人間がそうではないかという、さまざまな人間集団の分類を始めていく。

 

ナショナリズムはつねに人種差別的

結局のところ、人間は、差別を抱え込むことで生きてきた。

 

異者共同体論のテーゼ

「異者の共同体は、中心のない共同体である。同一化も排除もない共同体である。率先して自己排除する道を選択した人々が作る消極共同体は、たとえ無力であっても、すくなくともそこで排除と差別のない生活の実質が実現していることだろう。そこでは人間か非人間かの問いが一切の意味を失うだろう。」

 

社会的動物としての人間

われわれは、ふつう、「社会的人間」とか、「政治的共同体の公民=市民」として存在し生きることが、「幸福」で「立派」で「文明的」であると信じている。そうした信念を一度は根本的に疑ってみる必要がある。本当に「社会的、共同的に生きる」ことが生の充実と幸福に通じているのであるのか、と。むしろ反対に、社会や共同体のなかで生きることは、人間にとって不幸なことかもしれないのではないか。

 

道徳の問題ではない

あらゆる人間が善人であるゆえに、際限のない悪行をつづけてきたのだ、とでもいわなければ、「社会的人間」の行動の歴史は理解できない。ある種の道徳的に悪い人間がいたから、あるいは人類が啓蒙と理性の訓練を受けていないから、あるいは人類が十分に文明化していないから、人類は、そして個々人は、不道徳な行為、非理性的な行為、野蛮な行為をしてきたのだ、ということはできない。人類はいつの時代でも、それなりに有徳的であったし、文明的であったし、理性的であった。

それにもかかわらず、人類は、際限なく、数かぎりなく、耐えがたい「不道徳」と「非理性」の行為を蓄積してきたし、いわゆる「近代文明」と「近代理性」の時代たる現代においても、以前と同様に、いやそれどころか、かつて以上に、合理的道具と装置によって、しばしば血を流す形で、排除と差別の行為をやりつづけている。

 

原初の暴力ーー「場所をあけろ」と叫ぶ力

自己の存在の維持と保存は、たえまない切断線を際限なく引きつづけることである。

 

「私」の現存在は、「他者」の現存在を排除する。「他者」が「私」の自己保存にとって妨害物になるかぎりでは、「他者」に対する闘争が不可避になる。

 

秩序や制度は、たんにあるのではなくて、原初の暴力に直面し、原初の暴力を抑制する過程で生じてくるのである。いいかえれば、制度や秩序の形成を促すものこそ、人間的現存在の原初的暴力なのである。

 

第三項排除をもって解消する

人間は、相互排除の暴力を、任意の他人に集中することで、自分たちにむかっていた暴力を回避する。

 

任意のだれか(だれかは決まっていないが)ともかくだれか一人にむかって、集団的暴力が集中するとき、秩序形成のための排除のメカニズムが働き出す。

 

第三項を媒介に形成される市民社会

社会または共同体のメンバーが相互に自己確認するためには、犠牲者作りに参加したしるしを必要とするという事実は、社会のなかで生きる人間の基礎的なありかたである。

 

差別が排除の構造をより堅固にする

社会関係は、不断に排除のメカニズムを発動しつづけないと、自己保存ができない。

 

かりに、排除すべき対象が存在しないとすれば、秩序のなかにある人間は幻想的にさえ排除の対象を作りだすことであろう。人間の内に巣喰う暴力は、見事に首尾一貫する。人間は幻想のなかでさえ、秩序の敵を、排除すべき異物を産出しつづけるという奇妙な性格をもっているとさえいえる。人類は、古来、際限なく、異者を排除し差別しつづけてきた。

 

同一化がはらむ差別の分類図式

対象化という原理は、主観性の図式の内部への客体の同一化である。同一化できないものが排除される。同一化不可能なものは、あたかも存在しないかのごとく処理される。

 

自己にも他人にも、規律と訓練の視点(これこそ生産主義の理論であり、経済合理性を生んだ精神であるが)から対応する近代の思考様式と実践様式は、異物に対して激烈な排除効果をおよぼすのである。

 

人間/非人間の切断線はイデオロギーである

人間/非人間の切断と分類は、文化的なものである。文化的なものとはイデオロギー的なものであるということである。

 

人間/非人間の区分は、最初は、そしてたいていは、人間/動物の区分として立てられる。アルカイックな人々(いわゆる「未開人」)は、人間と動物を区別したり、人間と動物の間に厳格な切断線を引いたりしない。それどころか、彼らは人間と動物との連続性を考えて、動物排除や動物差別のドライヴを解消している。

 

人間中心主義は、人間であらざるものの全面的・決定的排除であり、非人間的なるものの絶対的差別なのである。

 

ヒューマニズムカニバリズム

動物は、非理性的であり非人間的であるから、排除や差別の対象であるばかりでなく、「食ってもよい」対象である。

 

「肉を食う」というタームは、現実的でもあれば隠喩的でもある。隠喩的とは、ある種の人間は「食ってもよい」のだから。差別とは「食ってよい」ことを含意している。「食ってよい」は、隠喩的に拡大し、社会生活のなかでの権利の剥奪と抑圧に通ずる。

 

人間をも含む「非人間」

非理性と狂気をもつもの、障害をもつものばかりでなく、男から差別される女性(と女性的なもの)、性的関係では同性愛、民族関係では無数の少数民族、文明/野蛮の区別のレベルでは、文明的でないとレッテルをはられる諸民族や国民、宗教的関係では、異教とされる諸宗教、等々、いくらでも「非人間」は増殖しつづける。

 

自己の内部の異者に気づくこと

一般に、個々人は、互いに、異者である。異者を同一性の文法にのせて、「秩序のなかでの他者」に作りかえることが、人間社会の余儀ない作法である。

 

異者の共同体は、中心のない共同体である。同一化も排除もない共同体である。率先して自己排除する道を選択した人々が作るこうした消極共同体は、たとえ無力ではあっても、すくなくともそこでは排除と差別のない生活の実質が実現していることだろう。

 

感想

なんだろうな、最近差別解消に向けて声をあげる人が多いけど、結局彼らは、彼ら自身が置かれたその線引きとはまた違うところで、自分が暴力を振るっていることには無自覚だ。

みんな自己保存に必死なんだよな。

常に異者を排除したがっている。

奪われるくらいなら奪おうなんだよな基本姿勢が。切断線は本当に身近に、至る所にある。でもそこに自覚的であるか、無自覚であるかは大きな違いだと思うんだよな〜

自明と思っているそれは、たぶんどこかの誰かへの切断線になっている。

 

 

 

 

 

 

 

近代性の構造 (講談社選書メチエ)

近代性の構造 (講談社選書メチエ)

  • 作者:今村 仁司
  • 発売日: 1994/01/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

カール・レーヴィット『日本の読者に与える跋』

『日本の読者に与える跋』

カール・レーヴィット
柴田治三郎 訳

 

カール・レーヴィット『日本の読者に与える跋』メモ

 

日本人はみんな愛国者である、どんなに心の寛い、どんなに自由な思想をもった日本人でも、やはり愛国者であるーー

 

そして、ボドレールからニーチェに至るヨーロッパの最上の人物がさすがに自己およびヨーロッパを看破して戦慄を感じたものを、日本人ははじめ無邪気に、無批判に、残らず受け取ってしまった。日本人がいよいよヨーロッパ人を知った時はすでに遅かった。その時はもうヨーロッパ人はその文明を自分でも信じなくなっていた。しかもヨーロッパ人の最上のものたる自己批判には、日本人は少しも注意を払わなかった。人々が今日でもまだ進歩の理念を信じているのはアメリカ、ロシヤおよび日本だけで、古いヨーロッパではもう久しい前からそれを疑いはじめていた。

 

日本が中国文化と接した時は、宗教上、学問上、道徳上の基礎を受けいれたが、日本人がヨーロッパから受けいれたのはそれとは違って、まず第一にヨーロッパの物質的文明――近代的産業および技術、資本主義、民法、軍隊の機構と、それに科学的研究方法であった。これがあると、何でもできないことはない。しかし、鷗外がせっかく承認しようとしても、「自由と美」だけはこれによってはけっして得られない。人間の本当の生活、物の感じ方および考え方、風習、物の評価の仕方は、その傍に、比較的変わらずに存続している。ヨーロッパ的「精神」およびその歴史――この歴史なくしては「精神」は今日あるをえなかったであろうーーは、それをいちじるしく変化せしめる体得によるのでなければ受けいれられるものではないから、それは受けいれられなかった。

 

ヨーロッパ的文明は必要に応じて着たり脱いだりすることのできる着物ではなく、着た人のからだのみならず魂までも変形させる気味わるい力をもったものである。

 

じじつ、西洋的文明の近代の業績は任意の目的のための単なる手段ではけっしてなく、多くの人間、多くの民族の全生活と社会生活を規定するものである。産業と技術ーー両者はいざという場合、戦争に役立つ――による生活の改造がもたらす内面的結果は、何びともこれを避けることができない。古い宗教上、道徳上、社会上の基礎の分裂は必然の帰結で、どんな文明の進歩もそれをごまかして、そっとやりすごすことはできない。「近代的日本」というのは、(ヨーロッパ人にとって)それ自身生きた矛盾である。本質的に近代的なものは日本的(日本精神的)ではないし、純粋に日本的なものは太古のものだからである。

 

日本的なもののうち最上のものを保存し、ヨーロッパの最上のものを採り、こうして「日本の完全」に「ヨーロッパの完全」をつぎ足そうとする(鷗外)。まるで文化と文化が任意に組み合わせられ、善いところを引き取って悪いところを返し、このようにしてヨーロッパを凌駕することができるといった風である。日本人は最上のものを受容する心の用意をどんな場合にも心の寛さだと解釈することが好きである。しかし、この心の寛さには、市井生活における日本人の有利な特徴として謙譲の徳があるにもかかわらず、虚栄のみならず不遜が含まれていないとはけっして言えないのである。(市井生活というのは政治的国家的生活に対しての意味で、後者においてはそんなに「謙譲」ではない。)

 

まずはヨーロッパの思考方法を受けとり、次に批判的に局限し、最後に事柄を何とかして「いささか深く」かつ「より複雑に」理解するという結構な結果に達する、といった風である。

 

ヨーロッパからすでに何もかも学んでしまって、今度はそれを改善し、もうそれを凌駕していると思っている。 

 

自己の優越をかように無邪気に信ずることのより深い根拠は、正義は神国日本に体現していると信ずる日本的自愛である。

 

何か他のもの、知らないものを体得するには、あらかじめ自分を自分から疎隔すること、すなわち遠ざけることができ、それから、そのようにして自分から離れたところにいて、他のものを知らないもののつもりでわが物にする、ということが必要であろう。体得という精神的作業は、一種の加工でなければならない。その加工をやっているうちに、われわれの作業の対象たる「知らないもの」は「知らないもの」でなくなる。

 

しかし、自己の外にあんなに自由に歩みでること、そして、その結果生まれる体得の力、自己および世界に対する自由な態度から生ずる体得の力はかつてなかった。ギリシャ人だけが、最初に生まれたヨーロッパ人として、ブルクハルトの言をかりるならば〔四方八方を自由に眺めまわすことのできる〕「パノラマ式」の眼、世界と自己自身を観る客観的な即物的な眼差、比較し区別することができ、自己を他において認識する眼差を有していた。

 

即物的に他なるものを対自的に学ぶことをしないのである。

 

かれらは他から自分自身へかえらない、自由でない、すなわちーーヘーゲル流にいえばーーかれらは「他在において自分失わずにいる」ことがないのである。

 

本当のところ、かれらはあるがままの自分を愛している。認識の木の実をまだ食べていないので、純潔さを喪失していない。人間を自分の中から取り出し、人間を自分に対して批判的にするあの喪失を嘗めていないのである。

 

それに、チェンバレンが delicate sensitiveness とよんだ極端な感じやすさがつけ加わる。その裏側は短期(touchiness)で、これは真実を回避するし、前後を顧慮する弁えがない。

 

ヨーロッパ精神はまず批判の精神で、区別し、比較し決定することを弁えている。批判はなるほど純粋に否定的なもののように見える。しかし、それは否定することの建設的な力、古くから伝えられて現に存在しているものを活動の中に保ち、さらにその上の発展を促す力を含んでいる。批判は、つねに存するものを一 歩一歩と分解し前進せしめるがゆえに、まさしくヨーロッパの進歩の原理である。東洋は、ヨーロッパ的進歩全体の基礎になっているこうした容赦のない批判が自分に加えられるのにも他人に加えられるのにも、堪えることができない。およそ現存するもの、国家および自然、神および人間、教義および偏見に対する批判ーーすべてのものを取って抑えて質問し、懐疑し、探求する判別力、これはヨーロッパ的生活の一要素であり、これなくしてはヨーロッパ的生活は考えられない。

 

絶えまのない危機を通しての前進、科学的精神、決然たる思考と行為、不愉快なことでも直截に言表すること、〔他人を論理的〕帰結の前にひきすえたり、みずから〔論理的〕帰結を引き出したりすること、そしてとりわけ、自己を端的に他から区別する個性、これらすべてのヨーロッパ的特性も、そうした批判という能力と密接な関係を有する。じっさい、何事にあずかろうと〔何事を分かとうと〕、みずからはつねに「個体」、すなわち分かつことのできないものたる人間だけが、およそ、自分と神、自分と世界、自分とその民族、あるいは国家、自分と人間、自分と自分自身の「厭うべき我」(パスカル)、真と偽、諾と否を、そのように峻烈に的確に区別し、決定する能力を有する。

 

それゆえ、ヨーロッパ的精神の対照をなすものは何かといえば、境界をぼかしてしまう気分の中でする生活、人間と自然界の関係における感情だけに基づいた、したがって相反を含まない統一、両親、家庭および国家への批判を抜きにした拘束、自己の内面、自己の弱点を露わさないこと、論理的帰結の回避、人との交際における妥協、一般に通用する風習への因襲的服従、万事仲介による間接的な形式等である。そして、この仲介による形式は個人としての人間を除外し、人間に、自分で行動し、自分について語り、自分のために弁明することを許さないものである。

 

それゆえ、圧制を加えて画一化する権力ということだけは、ヨーロッパにとってはつねに致命的な圧迫である。その権力が一つの国家に仕えるものたると、あるいは政治的なり宗教的なり社会的なりの一つの水平化的傾向に仕えるものたるとを問わない。

 

ブルクハルトが前世紀の中葉にすでに大衆化の一結果として予見していた強制統一と強制水平化が、全体主義国家においては一つの事実となってしまった。

 

まず第一に盲目的に信じ従う(信ずる〈credere〉・従う〈obbedire〉・戦う〈combattere〉というのが、ファッシストの金言である)べき国家、地上の神として良心を左右するものであり同時に一種の教会である国家という怪物、専制とを、かりにヘーゲルやブルクハルトが見聞きしたとすれば、この人たちのヨーロッパ的精神は一刻も猶予せずに、この発展を「アジヤ的」への発展と名づけたに違いない。じじつ、これは単純化を強要し、生活と思考の一様化を教えるもので、そんな一様化が行われたら、ヨーロッパの伝統的精神は締め殺されてしまう。

 

感想

これ初出は1940年『思想』11月号なんだよね。

1940年って、第二次世界大戦の最中。「ぜいたくは敵だ」とかの言葉が流行った年。

東北帝国大学で、教鞭をとっていたドイツ生まれのユダヤ人のカールレーヴィットから見た日本、そして日本人。

80年日本は変わっていないのではないかと思った。

今の日本とこれが書かれた当時の日本は、割とよく似ている気がする。

 

ちなみに、レーヴィットのいうヨーロッパとは新しいヨーロッパのことではなくて、「古い真の意味でのヨーロッパ人」のこと。だからヨーロッパの精神が生きていたドイツの最後の哲学者はニーチェなの。

 

 

 

 

 

マルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』

『破壊しに、と彼女は言う』

マルグリット・デュラス
田中倫郎 訳

 

マルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』メモ

P36

「ここが居心地がよくって、幸福みたいな気分になってくるんだ」

きっとアニタは十四歳ぐらいだろう。

エリザベート・アリオーヌの亭主は、おそらく彼女より年下だ。

「幸福みたいな気分?」とアリサが訊く。

「くつろげるーーという意味なんだ」

 

 P38

「どうして危険なの?」と彼女は訊く。

「きみと同じく、ぼくだって知らないよ。どうしてなんだろう?」

「みんながこわがるからよ」とアリサは言う。

 

P39

「きみが来てくれて、ほんとによかった」

彼女は体の向きを変える。また彼女の視線が向けられる。ゆっくりと。

「破壊しにね」と彼女は言う。

 

P47

「シュタイン、彼は夜、自分の部屋であたしなしでいたのよ。あらゆることが、あたしを抜きにして、もう一度生まれ始めてたのね、夜だってそうよ」

 

P89

『わたしはこわがり屋なんです』とアリサは続ける、『見捨てられるのもこわいし、未来もこわい、愛することもこわい、暴力や群衆もこわい、未知なるものもこわい、飢餓状態もこわい、惨めな状態もこわい、真理もこわい』

 

 

文庫版解説

P183 

「あらゆる人間関係は、性的関係をも含めて、階級関係です。私がアンガジェーしていると言ったりすることはなんの意味もない。私の書くことすべてが自然に政治化されるのです」

 

P189

デュラスはこういう若者たちの、「なにもしないでいられる能力」を高く評価する。「私が映画を作るのは時間をつぶすためである。なにもしないでいられる力があれば、私はなにもしないであろう。私が映画を作るのは、なにもしないことに専念する力が欠けていたためである」

 

 

感想

やっと読めた。初めてこの本に出会ったのは、今は無き西荻窪のbeco cafeで、私はまだ17歳かそこらだったと思う。このブックカフェでホットラムミルクを飲みながら浅野いにおの漫画とこの本『破壊しに、と彼女は言う』に出会った。タイトルに惹かれたのをよく覚えている。それでも、そこで読む時間はなく、タイトルだけを控えていた。それから数年後、偶然ーーほんとうに偶然、古書フェアでこの本を見つけた。普段は中古品は買わない主義なのだけど、ご縁と感じて購入するに至った。

それから少し読み始めたが、75頁辺りでとめたまま、読み切ることができないでいた。まるで理解が追いつかなかった。全くと言っていいほど読めなかった。

そろそろ10年が経とうとしている今回、初めて最初から最後まで通して読むことができた。

ホラーのようにも感じたし、多重人格者の話なのかとすら疑いながら読んでいた。まだ当分理解は難しい気がした。どう受け止めたらいいのかもわからない。狂人とはなんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

荻原規子『RDG2 レッドデータガール はじめてのお化粧』

荻原規子『RDG2 レッドデータガール はじめてのお化粧』メモ

P125

彼にとっては、泉水子も馬も式神も、まとめて同じように接する相手なのかもしれなかった。人かどうかで区分して垣根を作らないのだ。そのおおらかさに気づくと、今まで怖がっていた自分は心が狭いように思えてきた。

 

P171

「あいつがだれもきらわないのは、無関心のせいよ。関心をこちらに引き止めるものがどれだけあるかって、ときどき自信なくすの。やっぱり醜いものね、人間同士は」

 

 P190

また、すがって泣く相手がいることにも心打たれた。泉水子自身は、そんなふうに泣いた経験がなかった。大成にも竹臣にもしたことがないーー記憶にないほど幼いころは別かもしれないが。

(ないのは当たり前かもしれない。わたしはまだ何ごとも、ぎりぎりまで努力したことがなかったからだ……)

 

P224

「どうしてそこまで節操のないまねができるんだ。あんたって人、何して生きているんだよ。まともな就職もしないで……」

「生活に不自由させたおぼえもないのに、言われることじゃないな。大事なものを大事にする生き方をして何が悪い。必要とされる場面にいるだけだよ、わたしは」  

 

 

P256

どこまでを分かち合えば、その人を友だちと呼べるのだろうと、泉水子は考えこんだ。たぶん、だれだって、洗いざらいをさらけだしてなどいないはずだ。隠し事がひとつもない間柄でないと、友人になれないなどということはないはずだ。

 

P267

(……他人に何かを期待しなくても、ひとりで気を取りなおすことくらいできる。すべて、わたしが自分でどうにかすることだった。どうしてくよくよすることしか知らなかっらんだろう。わたしはもともと、お山でひとりで遊べたのに。虹を見たり、星を見たりして、それだけで楽しくなることができたはずなのに)

何か今まで、ひどく基調が狂っていたとしか思えなかった。人と人の関係に悩むより先に、やっておくべきことがあったのに、泉水子は今日までとうとう気づかなかったのだ。

(自分自身の声を聞こう……だれがどう思っているかと、そればかり気にせずに)

雪政の考えは雪政のものであり、深行の考えは深行のものだった。真響にだって同じことが言える。他の人間の思惑に振りまわされてばかりではなく、それらとは別に、結局はひとりだということをふまえて、自分は何がしたいのかを考えていいのだと、泉水子は静かにかみしめた。

 

 

P295

「女の子なら、きれいになりたいと思うでしょう。けれども、化粧には別の意味もある。顔を彩ることはまじないに近いんだ。面をつけることも同じ効果だけど、人は顔がちがうとちがう境地になれるんだよ。ふだんはできないこともできるようになる。他人に見せる顔というのは、それほど大事なものなんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

荻原規子『RDG3 レッドデータガール 夏休みの過ごしかた』

荻原規子『RDG3 レッドデータガール 夏休みの過ごしかた』メモ

 

P245

(生きているものはすべて、いつか死ぬ。でも、愛しているものが自分より先に死んだら悲しい。それはすべて当たり前のことだ……) 

 

P246

(死なれると悲しいって、どういうことだろう……)
根本的なことを、あらためて考えてみた。悲しいのは、好きだったものの肉体が朽ちて、この世から消え去ってしまい、二度と触れたり交流することができないからだ。

 

 P252

(……二重のものごとに接しながら、表でふつうにふるまえるようになるには、それなりの心の強さが必要なんだ。マイナスの事態が起こっても、他人に気づかせず笑っている精神力がいる)

 

P261

「ひょっとしたら、回復させる方法がまだあったのかもしれない。そうじゃなくても、このまま死ぬだけでも、馬は、おれたちが何をするかは知らず、痛くても苦しくても命の最後まで生きようとしていたんだ。そうさせたほうが、かえってタビが満足したのかもしれない。あんまり苦しむから、もう楽にさせることにした。でも、人間の決断が正しかったかどうかは、永遠にわからないんだ」

 

P320

「おまえたちは、今の自分がどれほど不安定かをわかっていない。しかたがない、そういう年齢なのだ。この世に生まれてきて、生存を勝ち取るときと同じくらいの綱わたりをしているが、そのことに気づかない。子どもではなくなるとき、どのように自分を変えるかは、霊能を持つ者にとってはとりわけ選択の難しい問題だ。ほんの少し出方をまちがえるだけで、そのまま死にも直結する。神に接する能力を、そこでだめにする事例は山のようにある。おまえたちは、まだまだ結果の出ない存在なんだよ」

 

P321

「けれども、こればかりは親であっても詳しく教えられない。何を愛してどう生きるか、そのどこに落とし穴があるかは、それぞれ本人にしか用意されないものだ。人間はわからないものなんだ。人の数だけ試練があるし、その失敗がある。今回、わたしが適当に収めてしまったから、おまえの本当の試練は先延ばしということになるし」

 

 

 

 

 

川原泉『空の食欲魔神』

川原泉『空の食欲魔神』メモ

不思議なマリナー

たとえば
2匹の焼き魚が あった時
加納さんは いつも
ごく自然に大きい方をわたしにくれるのだ
加納さんはそーゆー人なのだ

ミソ・スープは哲学する

…世界は
世界は不透明である
と透明な人は言った…

アンドロイドはミスティー・ブルーの夢を見るか?

私の宇宙船はたくさんある
だけど 私は 船主より船乗りになりたかった
私の宇宙飛行士はたくさんいる
だけど 私は 自分が宇宙へ船出したかった 

 進駐軍に言うからねっ!

よ〜するに はじめは みんな 他人である

3月革命

本日お集まりの皆々様ごめんなさい
おとーさんおかーさんごめんなさい
だけど3月革命のシーズンなので
恥知らずにも浩生とわたしは堂々と退場するわ
堂々と……
ああ 桜よ桜 桜吹雪

月夜のドレス

秋好は…
ボケーッとして物覚えが悪くて感動が薄そーで…だけど秋好は
何気ないふりして歯をくいしばり
…そーして誰もいない所で泣くのだろう

 

解説 夢だっていいじゃない 伊藤比呂美

川原泉の描く女の子たちは、じっさい受験生かそうじゃないかと別にしても、受験という、性の区別のない世界ではりりしく生きてきた印象を与える。でも、彼女たちは、じつは受験後の運命がこわい。成熟しなくちゃいけない未来がこわい。性を直視したくない。それを打ち消したい。川原泉の素人っぽさが、姑息なのか無邪気なのかわからなくなるのはこのときだ。性の差も年齢の差も、描けないのではなくて、描かないんじゃないのか。女の子たちのきているふわっとした服。エプロンは、生理的な女らしさをかくす手段だ。女の子たちのぶっきらぼうなことばづかいは、社会的な女らしさをかくす手段だ。高校球児といえば背が高くって重たくって臭くってにきびだらけで醜いはずだが、それが金髪をなびかせ、春の日だまりのようにほほえむだけなのは、それしか描けないからじゃなくて、そう描きたいからだ。三〇男たちの目に星がきらめき、高校生のようにういういしいのも、そうあってほしいからだ。川原泉は性を消しまくったわけである。

 

性は打ち消したいが、恋愛の夢は見たい。恋愛は、女の子たちにとって、問答無用の見はてぬ夢。こういう社会の中で、すなおでいい子の女の子として、少女マンガ読みながら育ってきたら、それしかないのである。でも現実は直視したくない。それなら、成熟さえしなければいい。すなおないい子、かわいい子のままでいつまでもいられればいい。そうしてお父さんのお膝の上であんのんとしていたい。おじさんたちは、つまりそのためにいる。みんな、お父さんの身代わりである。

 

 

感想

私は、私を無理やり成熟させようとするすべてが苦手なんだな

女の子的なものは好きだし、かわいいものや美しいものにときめくけれど、それと「女であること」を強要されるのは全く違う

川原泉の世界はやさしくてあたたかくてすき

性ではなく、人間として尊重して欲しいってずっと思っている

わかってくれる人は多くはないけれど、私は夢をみていたい

 

 

空の食欲魔人 (白泉社文庫)

空の食欲魔人 (白泉社文庫)

  • 作者:川原 泉
  • 発売日: 1994/09/01
  • メディア: 文庫
 

 

フィリップス・アリエス『死と歴史』

 

 フィリップ・アリエス『死と歴史』メモ

気になった箇所の引用

瀕死者は自分の死を奪われてはならなかった。彼はまた自分の死を司らねばならなかった。かつて人は、公に生れるのと同様に、公に死んだ。

 

主役は瀕死者自身のものだった。彼が司り、失敗は殆どなかった。

 

今日ではもはや、銘々が持つか、または持たねばならぬ、自分の最後は間近いといった意識は何ら残っていないし、死の瞬間が持っていた公的荘厳さの特徴も何一つ残っていない。かつて知られねばならなかったことが、これからは隠されてしまう。かつて荘厳でなければならなかったものが、はぐらかされる。

 

幸福と安楽の社会にあっては、苦悩、悲哀、死の居場所はもうなくなったなどと言ったら、軽率に過ぎた答えである。 

 

彼は自分の死の主人である限りにおいてのみ、自分の生の主人であった。彼の死は彼に属し、彼だけにしか属さなかった。

 

重大な危険が家族の一員をおびやかすと、すぐに家族は彼をつんぼ桟敷におき、彼から自由を奪うよ企てる。そうなると病人は、子供のような未成年者か、あるいは精神薄弱者のようになり、配偶者や親戚が彼の面倒を見、世間から隔離するのである。ほかの人の方が彼よりもよく、彼のすべきこと、知るべきことを知っている。彼は自分の諸権利、とりわけ自分の死を知り、それを準備し、それを計画するという、かつて基本的であった権利を失ってしまう。そして彼は、それが自分を思ってのことだと確信しているので、されるがままになる。彼は家族の愛情に頼る。それでもやはり彼が見抜いた場合、彼は知らん顔をするであろう。往時の死は、人が死にゆく人物を気取る──しばしば喜劇的な──悲劇であった。今日の死は、人が自分の死ぬのを知らぬ人物を気取る──常に悲劇的な──喜劇である。

 

あえて死を口にすること、そのようにして社会関係の中に死の存在を認めること、それは昔は日常茶飯事の枠内のことであったが、今はもうそうでなく、例外的で途方もない、しかも常に悲劇的な状況を惹き起すことなのである。かつて死は見なれた顔であり、だからこそモラリストは、恐れさせるために死を醜くせねばならなかった。今日ではただその直言うだけで、日常生活の規則正しさと相容れない感情的な緊張を誘発させてしまう。 

 

感想

6年ぶりくらいに読み返した。
最近、死について考えることが増えた。
センシティブで受け入れがたいことから、見つめるものへ。
死を少しずつ、昇華させていく。

今一度自分の死の主人になれる日は我々に訪れるだろうか。